霊魂の不在証明(2)

霊魂の不在証明

ある高校生さんからこのウェブサイトを通して受け取った質問から、もうちょっと解説してみます。この話はこちらの小説『フラットランド』をお読みいただくと、もっとわかりやすいかもしれません。アートマンやら何やらのややこしい思想的な解説は「補足」として囲んどきました。

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『フラットランド―二次元の世界から多次元の冒険へ』
エドウィン・アボット・アボット(著) 牧野内 大史 (翻訳)

フラットランドは影の世界

例えば、フラットランドを影の世界だと考えてみよう。

紙っぺらには厚さがある(3Dだ)けど、影に厚さが無い。

そこには面積があるだけ。

だから2次元の世界。

2次元の視点から見ると、

「光」と「影」はお互いがお互いに依存する相補対待の関係。

これは正確には、光のあたっている面積と、光のあたってない面積の関係のこと。常に全体の面積から一方を引き算したのが、もう一方になる。一方がなければ、光と影という言葉すら必要なくなる。だからこれは相補対待。

しかし、これを3次元から見ると世界はガラリと変わる。

3D(スペースランド)にあるのは、光源と、光を遮る物体だ。上の写真だと、サイコロと、サイコロによってできた四角い影がある。ここで、光源はサイコロがなくとも存在できるし、サイコロは光源がなくとも存在できる。

お互いが無関係だ(相補対待ではない)。

しかし、明らかに「影」は、2つの存在の関係から現れる。

その影がスクエア君。

↑の写真では八面体のサイコロの影が、スクエア君になっている。

図にするとこんな感じだろう。

フラットランド

僕たち3次元人にとっては、彼が実体を持たないことを知っている。彼は3次元を2次元に射影した存在だ。影であって、実体ではない。

しかし、一方でスクエア君は、フラットランドの物語を創り出す主人公だ。

2次元の世界で彼は圧倒的に存在するし、3次元の2つのモノ(光源と物体)の位置関係によってフラットランド内を動き回る。だから、スクエア君は、影は自分の実体だと思いこむことができる。

スクエア君
僕は正方形のカタチをした実体だ

それは彼にとって正しい、僕たちにとっては正しくない。そもそも、それを創り出している物体(サイコロ)だって、三角形を組み合わせた八面体。たまたま影が正方形になるように射影されているだけだ。

ここで、光源を2つに増やしてみよう。ひとつの物質から2つの影が生まれる。すると、2人のスクエア君が登場する。2人は、物質の影のバリエーションだ。

フラットランド

2人のスクエア君は2次元では矛盾するが、3次元では矛盾しない。

物質の数によっても、光源の数によっても、影はいくつも増えていく。

『フラットランド』のスクエア君は、小説の中で3次元の球体(スフィア君)と出会う。そして、球体からこの真実を告げられ、冒険の結果、この仕組みを完全に理解する。

スクエア君
自分は立体・サイコロなのではないか?

人はどこまでも同一化できるヨリシロを探すので、今度は影ではなく物質(サイコロ)に自己を同一化させようとする。

スクエア君
自分は2次元ではなく3次元の存在なのではないか?

ここでスクエア君が考える3次元の自分こそが、霊魂だ。そして、こちらの高校生さんが氣になさっていたのも、この霊魂が否定されてしまったら自分を同一化できるヨリシロを失ってしまうのではないか、ということだった。

霊魂の不在証明

心配するな。

ヨリシロはヨリシロだ。

影はどこまでいっても影だ。

読み飛ばしてもいい補足:(この霊魂はサンスクリット語で「アートマン」という。だから、このアイデアを「アートマン思想」ともいう。自分を3次元の身体に同一化させず、ひとつ上の次元の何か、よくわからない存在、霊魂、アートマンに同一化すればいいんじゃない? というアイデア。

上の写真でサイコロを「アートマン(我)」としたら、光源はバラモン教でいうところの神様「ブラフマン(梵)」になるね。そこで、光源とサイコロって一緒じゃん、というアイデアを「梵我一如(アドヴァイタ)」という。

うん、確かに2次元から見たら、それって一緒。梵我一如だ。ライト=サイコロ=影、一直線に並んで考える。この梵我一如・アドヴァイタは最近の流行りでいえば「ノンデュアリティ」かな。

でもちょっと待って、3次元から見たら、それは一緒じゃないよね?

だって、光源のライトとサイコロはちがうものだし、影はサイコロでもなければライトでもない。つまり、僕はここで「アートマン」ではなく「ナートマン(無我・非我)」について解説しようとしている。ナートマンはただ「アートマンが無いね」ってだけじゃなくて、本質は「それは一緒じゃないよね」と同一化から自由になることだ。

アートマン、それは関係性が創り出したひとつの影に過ぎない。確かにその影があるのは、ライトとサイコロの位置関係からなんだけどさー。それでもライトもサイコロも影と同一化することはできないよね。関係の結果としてある影から見たら「オレはライトだ!サイコロだ!ワンネス!!」かもしんないけどさ。

『フラットランド』の主人公スクエア君が最終的に悟るのも、このこと、ね。

これは古代ギリシャの哲学者プラトンの「イデア論」も同じ話で、彼はこれを洞窟の影と例えて解説した。人が見ることができるのは影、ニセモノだけで、その影を創り出すホンモノの実体「イデア」があるとした。それは固定的に確固たる姿で存在している真実とされた。

しかし、これをナートマン的に考えてみてよ。そう、イデアすら影だね、ということになる。それじゃあ、イデアは何の影? 影の影さ、ってわけで釈迦の哲学ではこれを、関係によってできる一時的な姿=「無常」であり、それを映す関係=「縁起」として解説しているんだ。イデアすら影、世界は関係の連鎖(影のようなもの)でできている。

うん。確かに、釈迦がいってることは筋が通っている。科学的にも3次元におけるサイコロという物体は、緻密に見ていけばスカスカの素粒子で波でしかない。だから実体があるように言える3次元においても、別の次元から見たら影のようなものかもしれない。)マッキー

次元の階梯をかけあがる

スクエア君
物質は実体であるよね? これはれっきとした存在だよね?

物質は硬いし、ぶつかれば痛いし、それは確かに、ちゃんと存在するように見える。

これを、私のイデア世界だと考える、私の霊魂だと考える、……こともできる。

スクエア君
そうか僕は物質(霊魂)の影だったんだ!

そして高次元の物体を自分の本当の姿、霊魂だと考える。

スクエア君はそのように思いこむこともできる。

それは3次元人の僕たちにとっては、とても奇妙なアイデアだろう。

「いやいや、君は光源と物体の関係がつくりだした射影だから!」

影は物質が創り出したものでも、光源が創り出したものでもない。

2つの関係が創り出したものだから。
(映し出された面も入れると3つの関係になる)

では、それを創り出しているもの(プラトンのいうイデア:真実の姿)があるのか?

3次元においては、ある。

プラトンさんは正しい。イデアばんざい。

しかし、より上の次元からすれば「それだって影だろ!」というものかもしれない。

自分を変える旅から、自分に還る旅へ。

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牧野内大史(まきのうち ひろし)作家、コンサルタント。著書に『人生のシフト』(徳間書店から)スピリチュアル翻訳者として著名な山川紘矢さん 亜希子さんご夫妻 あさりみちこさんとのセッション本(ヒカルランドから)や、監修翻訳を担当した『ソウル・オブ・マネー』(リン・ツイスト著)等がある。2014年にIFEC(国際フラワーエッセンス会議)に日本人ゲストとして登壇した。長野市在住。