君が「ノンデュアリティ」と言うとき。
それが「デュアリティ」「ではない」とおっしゃるのなら。
それもまた「デュアリティ(二元)」にすぎない。
ノンデュアリティというデュアリティ。
リアリティ、というアクチュアリティ。
さて。
易経という古代書物は、陰陽を説きます。
そしてこの陰陽というのは
「この宇宙に陰と陽があるよ」
……という意味では、ありません。
ウィキペディアの陰陽解説では「あらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つのカテゴリに分類する思想」とあります。
うーん。
ほんとは分類なんてしないんですよね。
陰陽というのは、この宇宙には陰も陽もないよ、というメッセージです。
八卦も、そもそも言葉にできないタオのダイナミクスを、たまたま8つの卦で表現しているのであって「山は山、水は水」とかち割ってカテゴライズしているわけではありません。むしろ、そのカテゴライズを超えて、判断を開いていくことです。
それはまるで、朝食にトーストを頼んだら、半熟卵が運ばれてきて「トーストをお持ちしました」と言われるかもしれないし、チョコレートが運ばれてきて「半熟たまごをお持ちしました」と言われるかもしれない、ということです。
易人とは、何が運ばれてきても美味しくいただけちゃう人のこと。
トーストの切り方にあーだこーだ言って今この瞬間を逃さない人のこと。
そもそも、厚切りトーストはただ厚切りトーストだけで存在できるんでしょうか?
薄いトーストがあるから、それの厚くないやつがあるから、それよりは厚いトーストを厚切りと評価判断できるのではないだろうか?
世界にぺらっぺらのトーストしか存在しなかったら、厚切りトーストは存在しません。同じように世界に1斤のトーストしか存在しないとしたら、4枚切りも8枚切りも存在しないはずです。そもそも切るという発想が無いですからね。
つまり、厚切りは、薄切りによって存在する。
同じように薄切りも厚切りによって存在する。
易という言葉は英語で「チェンジ」と訳せるんだけど、、
マッキー勝手訳では「バリエーション」と訳すこともあります。
僕たちはいつだって「これはコレなの!」と「変わりたくない」そして、同時に「変わりたい」生き物ですが、易の千変万化を観察しているとそれまで固定されたアテンションが解放されてしまうことがあります。
評価や分類に必死で散漫になっていたそれが自分に取り戻されると。
あれだけ努力しても変わらずに済んでいたことが、自然とすんなりダイナミックに変わってしまう、ということが起きます。
「自分の特別な使命を見つけたい」
「自分をもっとより良く変えたい」
「何か成して世界の役に立ちたい」
そう思っていた自分が、
何もしなくても、ほんと、なーんもしなくても。
何か意味ある特別な計画をしなかったとしても。
何も成すことができなかったと思ったとしても。
注意散漫になっていたアテンションを今ここに戻して。今ただ朝食を味わっている自分を感じること。その今この瞬間の自分をただ観ることが、何よりも世界の役に立っていることに氣づいたり、します。
すると日々に光がこめられるようになる。
合一が起きる。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。