これはタオの歌デスカ?
ちょっと前に近所の公園で子どもが
I have a pen 〜♪
と楽しそうに歌っていたのだけれど、
咄嗟に「これはタオの歌デスカ?」と、思った。
TaoTao
きっと、道や易の本質とは
それが語られはじめた時代はとてもシンプルなものだったのだろう。
おそらく後にフクギ(伏羲)と呼ばれる人物は、
枝を1本、手に持って、それをパキッと手折る。
ただそのシンプルな所作によって、森羅万象のすべてを説いたはずだ。
「パキッ」
それだけで、よかった。
けれども、時とともに様々な蛇足がいくつも積み重なって、なんだかよくわからん64卦という、素晴らしきエンターテイメントに発展していったのだと思います(マッキー勝手解釈)。そして、老子なる人物も、易経を愛読していました。彼はきっとその経の本質を見抜いていて、その知恵をぎゅっと凝縮して書いたのが……
「道徳経」
なのではないかな、と。以上は僕の勝手な私見であります。
もしかしたら、老子は伏儀との出会いを記憶のどこかに置いていたのかもしれません。そもそも、老子も誰とも知れぬ謎多き人物ではあるけれども。
……。
これは現在における中国の南部地域、ある小さな村での記憶から。
この日、伏儀は森羅万象を1本のペンを使って解説しようとしていた。
ここに1本のペン(枝)が落ちている。
(小枝をサッと拾いあげた伏儀)
I have a pen.
これが世界のすべてだと仮定しよう。
Ah… パキッ A broken pen.
> 一はニを生じ
そこでペンを折ると、ここに折れたペンができた。
すると、この世界には、
折れていないペンと折れているペン
2つのペンができたことになる。
ところで、折れたペンはただ折れたペンだけで存在できるのだろうか?
I have a pen.
It’s broken or not broken.
例えば、世界に折れていないペンしか存在しなかったら、折れたペンは存在しない。同じように世界に折れたペンしか存在しないとしたら、折れていないペンも、そもそも折れたペンも存在しない、ペンは折れているものなのだからね。
つまり、折れていないペンは、折れているペンによって存在する。同じように折れているペンも、折れていないペンによって存在する。
例えば、ノンデュアリティは、デュアリティ(二元)が存在するからノンデュアリティ(非二元)といえる。この意味において、ノンデュアリティはデュアリティと同じアイデアだ。
例えば、ワンネスもトゥーネスがあるからワンネスという。この意味において、ワンネスもスリーネスも同じアイデアだ。
例えば、
奇数は偶数ではない整数のことだ。
偶数は奇数ではない整数のことだ。
つまり、偶数の知は奇数の知であり、同時に、奇数の知は偶数の知でもある。
奇数だけが真実でも、偶数だけが真実でもないだろう?
偶数がエライわけでも、奇数がエライわけでもないだろう?
以上の認識を、「相補対待」と隣村のマッキーは呼んでいる。
> ニは三を生じ
ここに3つ目の関係性というものができる。
Broken Or Not Broken.
BONB
このBONBの作用によって森羅万象は生じている。
変化は森羅万象に作用し、その作用こそが存在の根底にあるものだ。
> 三は万物を生じる
対象が変化しているわけじゃないよ、変化が対象を創っているのさ。
この仕組みのことは、変化を意味する文字で仮にこのように書いておこう。
「易」
ありとあらゆる森羅万象は、易の作用だ。易、それは……
そこに有るということもできるし、そこに無いということもできるもの。
それが無であることに氣づけば、易の奥深さがわかるだろう。
それが有であることに氣づけば、易の広大さがわかるだろう。
しばらくして、この村の子どもたちの間では
1本の小枝を拾って手折る宇宙開闢の遊びが大流行したという……。
それから何千年も経過した現代にも易の形骸だけは伝わっているのだが、その真髄を解する者はとても少ない。
……以上、回想おわり。
『ラブ、安堵、ピース』
東洋哲学の原点 超訳「老子道徳経」
著:黒澤一樹(黒斎さん)
黒斎さんの新刊、今朝みたらAmazonでレビューが入っていたので、もう発売されているようですね。
これまでの信念や常識から自由になる一冊。
今日話した部分「一生ニ」は112ページの42章で、そのメッセージの中心部分は、すでに23ページの第1章、まさに道徳経の導入に書かれてあることなんだけど、すでにこの1ページ目の超訳からビシッバシくる感覚があります。
このほんの数ページだけで、何冊ものタオ本以上の価値があると個人的には思います。そしてレビューにもありますが、このコデックス装って、まさに「経」っぽいですね。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。