何かを説明するとき、
ある民は論理的(階段形式)で、ある民は直観的(棒高跳び)とされる。
僕の出会ってきた彼らは、むしろ逆のようにも思える……。
東の民は、その道を異常に理屈っぽく探求する。
どこかネチネチしてる。
西の民は、早々に素敵なショートカットを思いついてしまった。
> 「答えは、神様がそう決めたから」
ちゃんちゃん。
そう言っちゃえば、何でも「説明になっていない説明」ができることに氣づいてしまった。さらには、このアイデアは人の持つ力を奪って支配することもできたので、社会システムからも推奨、拡散された。
東の民には、これが短絡的な思考停止に思えた。
西の民からすると、思考停止こそ真実へこの身をゆだねることなのだ、ワンネスなのだ。その真実の視点からすれば、東の民は不遜にも、どーでもいいことをあーだこーだ論じているようにも聞こえていた。
それもそのはずで、西の民は神様の創ったゲームを(神様の意図に沿って)上手にプレーしようとしていた。一方、東の民は(自分の意図に沿って)今あるゲーム自体から抜け出す道を探していた。
自ずと、ゲームのプレースタイルには明確なちがいが出た。
西の民は商いを展開させたり、街を発展させたりしていた。
東の民は洞窟に座り続けたり、一日目を閉じたりしていた。
互いに互いのやっていることの価値がまったく理解できなかった。
部屋でそれなりにワイワイ楽しくやろうとしている者と、部屋の壁をひたすらガリガリしている者の、価値観はまったく異なるからだ。
ワイワイ。ガリガリ。
どちらも向こう側の精神は狂っていて、こちら側の精神は正常だと思った。
東では、抜け出す道を見つけたごく一部の人間は特別な人間、仙人と呼ばれ、社会システムからはまったく離脱して暮らしていた。ほとんどホームレスのような状態で。そのうち、彼らはこの世界そのものから消えた。
彼らは過去にも未来にも遡って消えたので、記憶にも記録にも残らなかった。
西の民たちの中にも、ゲーム自体に疑問を持つ者もいたのだが、彼らにとって 神様の意図に反すること = 大罪 だったので、他の者たちに石をぶつけられて死んだ。
その殺戮を生き抜いた者は、錬金術という科学システムを看板にその影で探求を続けた。
西の民、東の民、どちらにも手元には、ある文書があったという。
さらに古い時代、西とも東ともいえない、ある民の王はずいぶんネチネチした人物だったという。王は国の頭の良いやつらを集めて死ぬまで議論させたりしていた。これはある意味で国家プロジェクトだった。
科学システムの兆しすら生じていない中、この世界は何なのか? この私は何者なのか? ネチネチネチネチネチネチと追求した結果、彼らはひとつの結論に至った。
それから数千年経過して紆余曲折や解釈多々あるものの、結局のところその結論は何も変わっていない。それどころか、そこには現代科学でも解明しきれていない世界観すら含まれていた。
西の民も東の民も
これを情報として知ることはできたが
理解することはできなかった。
というより、誤解しながらも、それを理解だと積極的に思い込んだ。
> 「答えは、◯◯だから」
新しいショートカットは、不立文字、教外別伝、様々な使われ方で新しい
「理解ではない理解」を拡散しつ続けている。
その中でも、それを認識として知った人には、そこに書かれていたことがはじめて視えるようになった。そして本当に知った。それは、まるでパープルクレヨンだった。
現代人は、これらのことを、
情報として知ることができて。
さらに理解することもできて。
「なに当たり前のこといってるの?」くらいにさえ、思う。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。