おはようございます。
雪ですね。
起きて外に出て、びっくりしました。
今日は車で長距離移動でしたが
スタッドレスタイヤに履き替えておいてよかったです。
さて。
煉神還虚から還虚合道へ(1)の続き。
そもそも合一というのはね、
どちらか一方が、もう一方を支配するコントロールのことではないよ。
さらに中庸みたいに、互いに歩み寄ってバランスをとるわけでもない。
できるだけ言葉を選ぶならね……
それはインテグレーションが起きることだ。
ある人は、
目を閉じて、徹底的に思考をした結果……
13年を経過して、それは無と有、陰と陽なのだと思い至る。
これは「無」と「有」の合一であり。
「無」と「有」があるよって、ことじゃあない。
いわば「無」と「有」を同じもの、として捉える視点だった。
それは相補対待であり、「無」と「有」は単に呼び方のちがいだ。
ひとつのものをふたつの言葉で表記する。
そのひとつは「本体」で、もうひとつは「作用」を示していると。
つまり、その人は宇宙の本体を「無」と考えていた。
この「無」とは、無の作用からすれば、「有」でもある。これと同じように「有」の本体をつかんでみれば、それは「無」なのだ。
黒と名付ければそれが白ではなくなるように、これは「これ!」とも言い切ることはできない無がそこにはあった。その無というものは陰陽が混在しているようだが、混沌、カオスとはまたちがった静かな何かだった。
その人はこれを
「完全に静かな無」
と表現した。
静かな無は、何でもないし、何者でもない。
世界の何処にも置かれていないし、世界のどの時代にも置かれていない。
どこをどう探しても見つからない。見つかったら、それはそれではない。それはそもそも見つからないことすらできないのだから。
ごく自然な疑問として、
「じゃあ、それはそもそも存在しないんじゃないの?」
がある。「もとから何も無いんじゃあないの?」と誰かが聞いた。
いいえ、それは何よりも圧倒的な存在だ。
完全に静かな無は、確かに存在しない。そしてそれと同時に、存在しないことすらできない、存在を超えた圧倒的な存在でもある。
「完全に静かな無」はその性質上、この世界の何処にも、何時にも、何者にも静かにいて関わらないでいる。しかし、ここで「関わらない」と言ったら、「関わらない」という、新しい関係が生まれてしまう。その意味で「関わらない」ということは「関わらない関わり方をする」という意味になる。
だから「静かに関わらない」とは「関わらないこと」すら超えて関わらない。
それはとても深く関わっているということでもある。
それは、多くもないし、少なくもない、小さくもなければ、大きくもない。
それは誰にもぶつからない、誰にも知覚されない、誰にも理解されない。
それは情報も人格も持たず、何かの定義でも数式でもない。
それは波動が高いわけでも、波動が低いわけでもない。
そして死ぬことも、生まれることもない。
明かりは灯すことはできても、暗闇を灯すことはできないように、
明かりを灯したときですら、その背景にずっと暗闇はあるように、
誰もが、その完全に静かな無とは無関係ともいえるし、
完全に静かな無と、めっちゃ関係しているともいえる。
その結論に至ると
その人は世界を振り返り、そこに静かに佇むもう一人の自分の姿を見た。
すると自分は他でもない完全に静かな無からやって来たことに氣づいた。
瞬間、
その人はこの宇宙から完全に静かに消え去ったという。
その人は死ななかったし、生まれなかったし、生きなかった。誰の記憶にも、どんな記録にも残らなかった。ただ完全に静かに、この宇宙から立ち去り、過去にも未来にも、宇宙の何処にもかすかな痕跡すら残さなかった。
これは宇宙にとっての呼吸のようなものだった。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。