僕は英字でこの文をタイプしているので、文字入力のために30に満たないキーが並んでいます。そのキー情報はバラバラに配置されていて、あらかじめ固定された前後関係を持っていませんし、あらかじめ決められた意味もここには存在はしていません。
そして、こうやって順番に画面に映ったキーに触れていくと……
ピピピ
そこに関係と言葉と意味が生まれていくわけです。
コンニチワ
という感じ。
シャノンによる情報の定義では、その情報が示す意味には、それが表現でき得る情報状態の可能性が関わってくるとしています。つまり、「コンニチワ」の意味は、「コンバンワ」でも「コンニャク」でもない、いくつもの排除された可能性が創り出しているという考え方です。
「コンニチワ」の言葉の意味は、その言葉自体には含まれていなくて、それを書いた者と受け取った者が、脳内で「そのようには解釈をしなかった」排除された無数の可能性が意味を創り出していると見ることもできます。
もし、僕の単純な脳みそが「はい/いいえ」の2種類の理解しか持っていなかったとしたら、コンニチワは「はい」でコンニャクは「いいえ」というように、世界のあらゆるすべてを2つの意味でしか見ることができないはずです。
意味はそこにあるものではなく、常に捏造されるものです。
さて。
東洋には古来から伝わる書物には
「易経」があります。
この古代書物はコンピューター開発のヒントにもなっていて、その根っこには太極(タオと言い換えてもいい)という概念が眠っています。太極とは、何も意味しないアイデアなのですが、同時に、ありとあらゆることを意味していると考えることもできる情報集合です。
それは僕の指先に並んだ、無意味なキーの配列のような存在。
キーそれぞれに意味は無いのですが、ちょうど「A」という記号の意味は「BCDFEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZではない」ということが創り出しています。ひとつの記号は切り離された「ひとつの記号」ではない、ということです。
東洋の神秘的な易経について、ある西洋人は太極・タオの概念を「神(ゴッド)」と訳しました。
その根源から森羅万象すべてのものが派生していくからです。世界を生み出すもの、西洋でそのような存在は神としか表現できなかったのです……。
しかし、これをリヒャルト・ヴィルヘルムだけはちょっと独特な言葉で表現しました。
彼はタオを「世界を創造した神(ゴッド)」としてではなく、
「意味(ミーニング)」
と訳しました。
太極とは意味すること、意味そのものだ。
世界にある意味は、すでに創造されたものではありません。
その意味は、今まさに僕の目の前で創造されているもの、
自分が創造しているもの、
自分によって「ミーニングされているもの」。
以上、ここまで書いた文字の配列は読む人によっては、意味をなさない記号の羅列にしかすぎません。もし、何かの意味が見えるとしたら、この記号の配列を読む人の意識が「それ以外のすべての解釈の可能性」を排除することによって、創造されているものなんだと……思います。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。