1.まず最初に物質的な宇宙、地球という環境があった。
2.そこに雷が落ちて、生命が生じた。
3.そのずっと後にある日、意識を持った人間が生じた。
こうした歴史観は本当でしょうか?
科学は宇宙の仕組みを解き明かそうと思考を重ねてきました。宇宙がどのようにできたのか、その宇宙にはどのような法則があるのか、科学者たちはその謎解きをハッキリ存在していると言い切れる「物理の世界」の中だけに探し求めてきました。そのため、生命現象だって、ピンボールのように何かが何かにぶつかって、結果として起きている物理宇宙の中の「ひとつの物理現象」という結論になりがちです。
…それから20世紀になり、科学者が物質の究極の領域へと踏み入れると
量子力学という、とても奇妙な世界が拡がっていました。
そこは、これまでのデカルトやニュートンのパラダイムが通用しない世界。あたらしく提示されたアイデアは、還元主義的な考え方、機械論的な考え方、つまり「物質によって宇宙ができているのだ」という思いこみへの往復ビンタのようなもんでした。
物質はそこにあり、時間の経過で例えば移動して、別の物質にぶつかったら、それが原因となって結果、ぶつかった物質が弾かれる……というような、あくまで時間と空間(TSI)の中に確固として存在している物質……これは当たり前の世界観でした。
しかし、物質は非局所性といって、緻密に見ていけば空間的に離れていてもどこか「つながり」があるらしい。これは量子もつれ、エンタングルメントといって、その「つながり」は空間だけではありません。なんと、時間が離れた場合でもどうやら「つながっている」らしいのです。
つまり、物質を量子的に見れば、ここもあそこも関係ありません。同じように、今日も明日も昨日も関係ない、時空を超えている、そんなことがあり得るということです。
どうやら、僕たちのこれまでの世界観はTSIとしての
「位置がある」
というアイデアに冒されているらしいのです。
目の前の物質は「そこに在る」という「位置」を持っていますよね。
同じように、僕たちもそれぞれの「今ここ」という位置に存在しているわけです。
ところが、量子論を展開したニールス・ボーアがイメージする「存在するもの」とは、「観測されるまではそこには存在しないもの」でした。
ミクロな電子は、その位置を知るためにデザインされた観測や測定が行われるまでは、どこにも存在しないことになります。物理的なものであれば持つであろう、今いる位置も速度も測定されるまではありません。観察という行為がなされたときにのみ、それは「存在する」といえる、逆に言えば、観察されないならそれは存在しないということだ、となるわけです。
えっ、それって
「目を閉じたら、この世界は存在しない」
ということと同じじゃないのか?
こうしたボーアのコペンハーゲン解釈を聞いて、アインシュタインは
「科学ってさー “存在するもの” を解き明かすものだろ?」
といってキレたとか、なんとか。科学のたったひとつの目的は、存在するものの性質を明らかにすること。けれども、それが完全に客観的に存在するとは言い切れないものだとしたら、そこに存在するものを解明する科学者はどう世界を捉え直したら良いのでしょうか?
もしも、自分が空間上も時間上も「今ここ」という位置に存在しないとしたら、
一体、この物理宇宙の何処に僕たちは存在するといえるのでしょうか?
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。