僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごい近くにあるともいえるし、めっちゃ遠くにあるともいえます。
その写真の中のどこを探しても、それを見ている自分は存在していないからです。
それでは、自分はどこにいるのか?
写真世界の「あちら側」ではなく、自分はその写真世界の「こちら側」にいるんです。
2次元の外側に折り曲げられた新しい軸を持ってくると、そこに3Dの僕たちが立っています。
このカラクリをわかりやすく理解させてくれるのが
フラットランド。
『フラットランド―二次元の世界から多次元の冒険へ』
エドウィン・アボット・アボット(著) 牧野内 大史 (翻訳)
2次元世界の住人たちがいる世界では、すべてが1次元に見えます。1次元の世界が見えているから、彼らの意識は2次元を認識できるのです。
フラットランドにいる2次元人の認識は、こうやってテーブルの上に拡がっている2次元世界を上から見下ろすような構図になっています。その認識はテーブルの上にはありません。テーブルから離れた、上、から眺めている状況です。だからこそ2次元人はコインが円形であることを理解できます。
でも実際にはこうやって線=1次元で見えています。物理的な眼は、あくまでテーブルの上にあるわけですから。
この1次元世界を2次元として認識する。だから、この世界は2次元なのだ、と捉えています。
つまり、何かを認識するとき、
その何かより1つ次元を上げてはじめて認識することができる。
ということです。
認識は常にひとつ上の次元にある。
フラットランドの住人たちの意識は2次元内ではなく、2次元の外。3次元の方向に存在しています。
それでは、スペースランドの住人(つまり、僕たち)の意識はどうでしょうか。
僕たちは空間を3次元で認識しています。空間を3次元として認識しているのなら、その意識は3次元の中にあるはずがありません。2次元人の意識が実は3次元にあるように、僕たちの意識も3次元の外側にあるんです。
時間は正確には次元ではないはずですが、物理では時間を4次元として考えることもあります。なので3次元の外の空間は、ここでは「5次元」にあたります。いずれにしろ、この空間を認識する意識はこの空間宇宙にはない、と予想できるねということです。
……5次元世界にいる自分。
フラットランドはそのことを思い出させてくれる、130年前に描かれた古典SF小説でもあるのです。
僕たちが2次元の写真を眺めるとき。
その写真の世界に映りさえしない背景が自分。
あちらではなく、こちら側にある背景(コンテクスト)が自分です。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。