人は「世界を客観的に観ること」などできない。
なぜなら、見ること、それ自体に自分も参加しているから。
人は「世界を中庸な見方で観ること」などできない。
なぜなら、自分との差異から生まれる意味を使って、はじめて見ることができるから。
(画はLUCYからトレース)
人は世界にある程度のポジティブな意味づけや、ネガティブな意味づけをすることによって、そこに起きている世界に同意し現実として受け取ることができます。
ある人から見たら、ポジティブに思えることも、ある人からはネガティブに見えている。そんな現実化があります。どちらが正解か、ではなく、その人の現実化された正解=現実があるだけ、だったりします。
結局は、すべてがそれを見ている自分の受け取り方によります。
つまり、
「見たいようにしか見えない」
ということでもあるんです。
それはまるで無常の夢のようなものです。
なぜか、その夢を何人かで共有することができているのが、現実世界です。
「夢は現実ではない」
ではなくて。
本当は「現実は夢のごく一部」なんです。
それは無常にもそこに在ります。
それはダイナミックに変化しながら、そこにある流れです。
それは僕たちの信じているような固定化されたカタチとしては存在していません。
ホモサピエンスの視力では、この世界に存在する電磁周波のうち1%も見ることができません。それでも、残りの99%の色は、それぞれが、それぞれの好きなような夢として創りあげています。
ホモサピエンスの聴力では、この世界に存在する音波のうち1%も聞くことができません。それでも、残りの99%の音は、それぞれが、それぞれの好きなような夢として創りあげています。
ほとんどの人にとっては世界の1%が、世界の100%のように感じられます。
99%は、自分の捏造した夢であったとしても。
世界の残り99%……
そこに僕たちは自分を発見します。
ノンデュアリティというデュアリティ。
リアリティというアクチュアリティ。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。