僕はその総本山を実際に訪れたこともありますが、想像を超えた天才たちが集結して教えのために身命を賭しています。繁栄のためあらゆる才能が惜しげなく注ぎ込まれている姿を見て、僕には恐ろしさと深い感動があったのを記憶しています……。
さて。
前にクラブのメッセージに書いていた映画のタイトルは何ですか? という問い合わせが多かったので貼っときますね。どこのレンタル店でも旧作100円ほどで借りられるんじゃないかと。
以降は、前回のつづき、です。
もし、認識を「陽」の面だけで説いたら、いったい何が起こるでしょうか?
例えば、ある聖者が
「あなたは何事もポジティブに考えなさい」
「あなたにはポジティブに考えることこそ必要だ」
と説く。
するとその人は「ポジティブに考えよう」と考えますよね?
ごく当たり前のように感じるかもしれませんが、これは出口の無い無限迷宮です。
一体、どういうことでしょう?
陰に「ポジティブに考えられない、ネガティブな自分」を設定してしまう陽になるからです。
自己啓発では、よくこんなことを言いますね。
「あなたの信念こそが、あなたの世界を創っている。
だから、あなたの信念を変えなさい」
そもそも、何かを信じようとする対象を信念とはいいません。
信念。
それは信じるまでもなく、認識された知。
そのものを指しています。
何がいいたいかというと、形而レベルをひとつ上げて俯瞰してみれば、そもそも問題は信念などにはないはずなんですよ。
本質的な意味での「信念」とは、「信じること」を必要とするものではなく、「信じること」を必要としないもののことです。
この理屈はちょいとパラドックスに聞こえるかもしれませんが、このトリックの仕組みさえわかればあらゆる認識がシフトします。
あなたがナニガシカの信念を持とうと、それを「信じよう!」と努力をするならそれは信念を持つことに抵抗していることになります。そのすべての努力は、その反対の効力を持ちます。
これで伝わるでしょうか?
続いて、これを星の王子が説いたとされる愛の話に戻すなら
愛すること
それは、愛を必要とはしないものです。
あなたが愛を持つ、または愛する努力をするならば、それは愛そのものから自分を分離させています。
誰かが何かを愛そうとするなら、それは愛ですらなくなっている。
このパラドックスに氣づいたなら、あなたはすでにそこにあった認識に氣づくでしょう。
愛とは認識の結果です。
それこそが密かに消し去られた
knowledge (認識)です。
常に目撃しているもの、常に目撃していたはずのもの。
そしてそれを認識したら、愛せない自分を責めるのではなく、愛せない自分を愛することからスタートしているはずです。
もしも、愛せない自分を愛そうとしても愛せないのなら、愛すことのできない自分を愛そうとしても愛せない、その自分を愛することからスタートしているはずです。
もしも、愛せない自分を愛そうとしても愛せない、その自分を愛せないのなら……うん、しつこいね?
つまり、こういうことです。
「愛」という言葉は、「愛」と、「愛」それ以外のすべてを含む。
その認識を得たあなたが DOING することは、すべてが愛につながっています。
つながらないはずもないんですよ。つながることが難しいのではない、つながらないことこそが、本当は難かったのです。
背景の BEING
振り返ってみれば……
つながらない
と思い込もうとしていた過去の自分だけが発見されます。
あなたにできたことは、ただ、それから顔を背ける儚い努力だけだった。
そのことに氣づきさえすればいい。そしたら、ほら、あなたはもう自分を包んでいた外側の世界を自分の内側にとぷんと包み込んでいる。その自分の認識に氣づいています。
パーソナル・パワー。
君よ、ひとり犀の角のようにハートの反逆者たれ。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。