固定されないということ。
今日は、クラブ内での発信に対していただいたメールから……ご本人の許可をいただいた上で一部抜粋し、こちらにシェアさせていただきます。
=== ここから ===
「わたしを食べなさい」
「あなたの内に、わたしを感じてください。
わたしの体現する愛と喜びの光を。
ただ在るだけで素晴らしいというこの氣づきを」
これを身体に入れた時に
やっと解放された感じがしました。
今まで
食べるという事に対し 罪悪感を持っていた私がいました。
花を摘むことに
花を切る事に罪悪感を持っていました。
雑草を抜く事に罪悪感を持っていました。
数年前に 全く食べないで光だけで生きている人の記事を見て
そのようになりたいと思いました。
他のモノを殺してまで、命を奪ってまで、創る人間社会。
なぜなのかわかりませんでした。
しかし
同時に食べたい私もいました。
花を飾りたい自分がいました。
庭を綺麗にするために草刈りをしている自分がいます。
でも
この部分を見たときに
どちらでもよいのだなと思いました。
両方とも私でした。
またひとつ定義を 脱げそうです。
いつも本当に有難うございます。
この言葉
「わたしを食べなさい」
この事を教えて下さって
本当にありがとうございました。
=== ここまで ===
Tさん、ありがとうございます。受け取りました。
それを知るということは単に情報を取り入れるという意味ではなく
その認識を得て、そこから「観る」ことを意味していることがあります。
認識 から 知識 への流れはスムーズですが、
知識 から 認識 への流れはちょっとしたねじれがありますね。
もしも、その知識が
「この認識は正しい」
となってきた場合は、注意が必要です。
それは認識の経験そのものではなく「正しい」に固定された知識だからです。
音声でも話している通り、アテンションが固定された状態ということ。
僕たちは、正しいことも、間違っていることも、経験できません。
ですから、「こうするべきだ」とか「こう考えなくちゃいけない」というのは幻想です。そして、「こうするべきだ」とか「こう考えなくちゃいけない」というのはもっともカンタンな、責任転嫁です。
あらゆる問題の本質は……
「コミュニケーションの失敗」
といえるかもしれません。
コミュニケーションが失敗すると、人は嘘をつく必要性、に迫られます。結果、その嘘は誰かを責めることにつながり。最終的に、自分を責めることにつながります。以上のことが連鎖となって起きています。
そんなこともあってか、コンサルタント、コーチやセラピストは人の嘘に敏感です。
嘘がその人の世界をかたち創っている、といっても、いいかもしれません。
この嘘の連鎖の根っこにあるおおもとが、実は「責任を取る」ということなんです。
「責任?」
責任 = 自分を責めること?
いえいえ、そうではありません。
自分を責めるのは、自分がどこかの時点で責任をパスしたからです。
責任とは、自分の決定の一切がっさいを自分の意に拠ること。
「コレコレ、という理由があるから、私はコレコレしますよ」
というのは結局、その行為の根拠を自分以外の他に置くことで
責任転嫁といってもよい思考なのかもしれません。
何らかの交渉や営業に携わったことがある方なら誰でも、責任を自身で取っている人間がどれだけ強靭かを知っています。
> 「私はそうしたいから、そうする」
> 「私はそうはしたくないから、そうはしない」
え、なんで?
> 「そうしたいから(したくないから)」
うーん。これを言われたら黙るしかありませんね。
どんな交渉術を駆使しても崩せません。
なぜなら、彼(彼女)は、誰のせいにもしていないからです。
自分で自分の世界のありとあらゆるすべてを引き受け
そこに座しているのです。
誰かのせい、何かのせいにしていないとき。
人間は完全に自由です。
人は自分を守ろとうして、嘘をついたり人のせいにします。
人を責めることも自分を責めることも連鎖としては同じことでしょう。
本当に強くしなやかなのは、いちはやく、自分自身で責任を引き受けることです。
引き受けるとは、しがみつくことではありません。
それは、自分が守ろうとしていた大切なもの、
それは、自分を守ってくれていた大切なもの、
それらの一切がっさいから、ふっと手を放すということ。
それらに固定されないということ。
原因も結果もなく、過去も未来もなく、根拠も帰結もなく。
ただそのままの自分で。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。