リグ・ヴェーダ
古代インドの聖典にはリグ・ヴェーダという興味深い讃歌であふれた3千年以上も前に編纂された書物があります。リグとは讃歌、そしてヴェーダとは知恵を意味しています。今日は1028もの歌その中から、ひとつの歌をシェアしますね。
宇宙開闢の歌 Creation.
(うちゅうかいびゃくのうた)
リグ・ヴェーダ讃歌より引用。マッキー勝手訳。
一 原初 時空は存在せず 存在も 非存在も 無い
それは 内も外もなく 何処にもない 源から生じた
ニ 終わりもない 永遠もない 光も闇もない 前兆もない
かのひとつのもの 風なくも それ自身によって呼吸した
三 虚無はただ虚無の中にあり 混沌とは離れていなかった
有は虚空にて 形状を持たず 偉大な熱はそこから生ず
四 以来 意がはじまったのだ それは魂の核心
知性は その原点を 無の中にこそ発見する
五 それは高くもなければ 低くもない ひとつの境界線
こちらに陽 あちらには陰 その間に展開を生む 深遠な力
六 創造がどこから生じ やってきたのか 宣言できる者はいるか
創造すら創造した存在など 存在しているといえる者はいるか
七 創造は創造をかたち創ったのか それともかたち創らなかったのか
最上位の視点は それを知ることも 知らないこともできるだろう
追伸:
リグ・ヴェーダ :10・129 ナーサッド・アーシーティア讃歌
ー クリエイション!「宇宙開闢の歌」 HYMN CXXIX. Creation.
マッキー勝手訳。タイトルは、故 辻直四郎氏の訳からいただきました。インド古典学の研究者ラルフ氏(Ralph T.H. Griffith)の英訳はウェブ上に公開されています。
The Rig Veda http://www.sacred-texts.com/hin/rigveda/
この詩について、辻直四郎氏のコメントから引用しておきます。
(この詩は)リグ・ヴェーダの哲学思想の最高峰を示すもので、神話の要素を除外し、人格化された創造神の臭味を脱し、宇宙の本源を絶対的唯一物に帰している。ただし展開の順序は正確に述べられていず、厳格な論理で律することができないため、見解の相違の起こるのはやむを得ない。しかし後の文献に見られる開闢説話と比較して考えれば、おそらく次のような順序が推定される。唯一物(と原水)ー意(思考力)ー意欲(展開への欲求)ー熱力(タパス)ー現象界。
『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫(絶版)より。
相補対待。
無には、通常、それが無いことを意味するものの、無限の可能性も意味している。易経哲学でも太極(無極)を両儀を生じる無ととらえているし、老子哲学でも万物の根源(道)を計りがたく無(無ですらない無)と考えている。
人は思考が好むトートロジーでそれを必死に追いかけようとする。けれども、それに人は追いつくこともできなければ、追いつかないこともできない。
それを知ろうとするなかれ。
それを経験しようとすることなかれ。
それは「それ」とそれを特定することだってできない。
それは時間上にも空間上にも特定の位置を持たないものだから。
それは計ることも数えることもできず、多くもなければ少なくもない。
それは世界を創造する源でもなければ、情報を記録する宇宙の叡智でもない。
それは理解されることはなく、それは一切に関わらず認識されることもない。
しかし、リグ・ヴェーダの示す通り、まぎれもなくそれから僕たちは生じた。
以上は世界の聖なる秘密(ヴェーダ)のひとつであるが
こうして文字で記せば、水の泡の如くたわいもないよもやま話……。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。