ドーナツの穴。
ある日、ある人は、
「自分が存在しない」
という意味でそれを言ったわけではなく
「それはドーナツの穴のようなものなんだぜ」
といった。
自分は無常の存在であって、その存在形態は刻一刻、ダイナミックに変化する宇宙のバリエーションの中にあるわけだ。そう、ドーナツの穴ってのは、まわりによって創られているわけだけど、ドーナツの穴自体を構成する固定的な何かがあるわけではない。
それでもドーナツの穴は確かにあるよね?
ある日、ある人は、
「人生のすべてが一切皆苦だ」
という意味でそれを言ったわけではなく
「すべての苦しみは固定化されていないんだぜ」
といった。
それはカタチを持たない無常の存在として存在している。
だから、それはそれとして存在しているように見えても、それ=苦ではない。
アリストテレスがいったように「すべての人が幸せを求めるが、その幸せは固定化されているものではない」ということ。それらは自分次第で、ある人にとっては幸せになったり、ある人にとっては苦しみになったりするよって。そりゃそうだ、万人にとっての幸せや、万人にとっての苦しみがあるわけではないんだぜ、と。
それは、まるで
「ドーナツの穴のようなもんだ」
「それが穴なら、そこには何も存在しないんじゃないの?」
ああ、だから穴という。
それは、そこにあるまあるい場だ。
そして、そのドーナツの穴は、ドーナツの穴以外の全体からできていて、その穴を埋めてしまったら、ドーナツはただの甘い揚げパンになってしまう。ただの甘い揚げパンはもはや、ドーナツなどではない。
ドーナツはけして揚げパンなどではない。
揚げパンはけしてドーナツなどではないのと同じくらい、ドーナツは揚げパンではない。
ということは、ドーナツにはやはり、穴はあるんだ。
穴を構成する部分は無いわけだが、ドーナツ生地があることでやっぱり穴はあるし、それによってこそドーナツはドーナツたり得ている。
そこにあるまあるい空間。
このドーナツが、
あなたという世界。
あなたという穴だ。
ああ、人生は確かに無常の夢のようなものかもしれないが、無常の夢が存在しないわけじゃないんだぜ。それは無常にもそこに在る。それはダイナミックに変化しながら、そこにある流れだ。ただ、それが僕たちの信じているような固定化されたカタチとしては存在していないってだけ。
残念ながらホモサピエンスの視力では、この世界に存在する電磁スペクトルのうち1%も見ることができない。それでも、残りの99%の世界は、それぞれが、それぞれの好きなように創り上げている。その1%すら無常であると氣づいたら、その100%を創り上げているのは自分に他ならない。
そこに僕たちは自分を発見する。
もう、ホモサピエンスは目に映るすべてを他の誰のせいにもできない。
チャーマーズのいうように、量子力学の解釈はほんと「クレイジー」だ。
僕たちには見えているものが、僕たちが見ているようには存在していない、だなんて。
世界は易だ。
ブック・オブ・チェンジではないよ、
「あなた」というライフ・オブ・バリエーションだ。
この世界の何を選んで拾いあげたとしても、あなたを表現することはできない。
あなたはドーナツの生地、そのどの部分とも同一化していない。
生地の一部を切り取って「ホラこれ!」と見せても、それがあなたというわけではない。
意識がそれを「これは自分だ」と思いこむことができるだけなんだ。
ああ、その通りで、確かに、そうなんだ。
あなたは、あなたの名前かもしれないが、それを超えた存在でもある。
あなたは、あなたの種族かもしれないが、それを超えた存在でもある。
あなたは、あなたの職業かもしれないが、それを超えた存在でもある。
あなたは、あなたの記憶かもしれないが、それを超えた存在でもある。
その一切合切のコンテンツに同一化されないコンテクストが、自分。
ノンデュアリティというデュアリティ。
リアリティというアクチュアリティ。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。