こちらのつづき。
本もオススメです。
モーフィアス
「現実だと確信していたものが夢だったことはないか、ネオ?
その夢から目覚めることができないとしたら?
夢と現実の世界を、どうやって区別する?」
これは胡蝶の夢ですね。
別のシーン、預言者の家の小僧がネオにスプーンを見せて
「スプーンは無いよ」
とスプーンを見せます。
いいえ、スプーンはそこに在ります。
それは「あなたの信じるような在り方でそこには無い」ということですね。
さて。
もし、マトリックス内で、誕生から臨終までの全人生を終えたとしたら、その人はマトリックスに氣づくことができるでしょうか?
また、それがどちらであるかは、その人の人生にどのように関係するのでしょうか?
……。
この世界はリアルかフェイクか?
小僧が示したスプーンと「無い」の言葉の意味は、このスプーンは実はフェイクで、リアルな世界にはそんなものありゃしない、ということだったのかもしれません。
ここでのリアルが真実という意味なら、実はそんな世界はありません。合意された範囲でのリアルな世界がそこにあるだけで、アクチュアルな意味において正解のリアルはありません。それはどのレイヤー(層)を選ぶかによって変わるもの、何に合意するかによって変わるもの、それだけがアクチュアルな真実です……。
ですから、ネオがスプーンが無いや!と思うのだったらないし、そこにやはりスプーンはあるぜ!と思うならあります。事実、マトリックス内においても、計算処理されながらスプーン情報は情報として存在しているので、その認識された情報状態そのものが無いわけではないのです。
小僧にネオが何か言うなら、
「うーん、僕が信じているようなカタチでは存在していないかもね」
という表現になります。
そして、これはたとえ彼らがマトリックス外にいたとしても同じことでしょう。なぜなら、人類にとってこの宇宙における物質が何であるかすら未知である部分は多いのですから、この現実世界における僕たちの信念だって必ずしも正解とは限りませんし、どこかは間違っているはずです。だとしたら、この世界は巧妙なシミュレーションなのです。
ネオが赤いカプセルを飲んで、マトリックスから目覚めた瞬間、自分が頭がつるつるであることに氣づきます。髪の毛は一本もありません。
頭フサフサの自分が本当の自分なのか?
それとも、頭つるつるの自分が本当の自分なのか?
どちら側の世界にいるかによって、ネオの答えは変わるでしょう。現実をマトリックスの外に設定するなら、つるつる頭が本当の自分、ということになります。
マトリックスにいるときはフサフサの髪をさわりながら「本当はここに毛なんて無いんだよな」とは思いもしませんでした。
目覚めたネオは、つるつるの頭をさわりながら、ここにリアルはあった!と叫ぶでしょう。
フェイクからリアルに目覚めたネオは人類を「本当の世界」に目覚めさせるために戦いはじめます。ネオは本当の世界、神の世界における、マトリックスに囚われたみんなの救世主です。
でもちょっとだけ物語を観る視点を変えるなら、マトリックスを創造した未来のコンピューターこそが神であり、エージェント・スミス(敵役)はみんなの世界、マトリックスを守るために現れた救世主にもなりえます。
マトリックスの物語が面白いのは、主人公たちがリアルだと思っていた世界がフェイクだったという構造です。その物語の前提になっているのは、唯一のリアルな世界が存在していて、それはマトリックスのあるザイオンのような世界こそが真実のリアルという考え方です。
アクチュアルな視点に立ってみれば、答えはこうです。
「唯一絶対のリアルなど、どこにもありません」
以前、メリルリンチが世界が仮想現実である可能性50%として提示したり、イーロン・マスク氏が人類が“天然”の世界にいる確率はかなり少ない、と言ったりして話題となっていますが、こういった考えを「シミュレーション仮説」といいます。
この世界が本当はコンピューター内のシミュレーションだったと聞けば、たぶん、多くの人はめっちゃ驚きます。
「そ、そうだったんだー!!!」
でもその翌日には、いつもの生活、普通の生活に戻るでしょう。
「そのシミュレーションがあと100年くらい続いてくれるなら、まあ、いいか」
フェイクだと明かされた現実はすぐにリアルになります。
その真実がもたらしたのは、世界は僕たちが信じるようなカタチでは存在していなかっただけで、リアルな世界が存在することについては何も損なわれません。その意味で、何かがあなたのリアリティの外において実際にどのようにあるかは大抵の場合はどうでもいいことです。
「シミュレーション仮説」とは、僕たちがリアルだと思っていた現実がフェイクで、どこかに本当のリアルな世界があるかもしれない、と考えることよって生まれる仮説です。
それはここに書いた哲学的ゾンビのように、リアリティの内側から確認することはできません。
『フラットランド』の物語では、この「シミュレーション仮説」とは大きくちがう視点があります。
氣づいたでしょうか?
これは図形の登場人物が多次元を行き来する物語ですが、2次元世界において、3次元世界は存在しない認識できないもの、となっています。逆に3次元からしてみれば、2次元は見渡すことができる世界です。
基本的に高次元から低次元にやってきた存在は、低次元に住む存在たちに「世界はもっと広いんだぜ」と、高次元へと誘います。この辺りは、モーフィアスの設定と似ていますね。
「お前は2次元の夢を見ているんだ! 3次元に目を覚ませ!」
と球体が三角形を連れていく。そして、物語が進むにつれ、3次元より上の次元があることに登場人物が氣づいていきます。2次元より上の世界があるよ、と3次元に行ってみたら、もっと上の世界がある可能性を発見していくわけです。
2次元人も、3次元人も、自分の世界が自分の思うようなカタチでは存在しなかったことに氣づいていきます。
2次元がフェイクで3次元がリアル、そういう物語ではありません。
よくよく考えてみれば、僕たちは2次元の世界を想像はできても、2次元の世界に直接触れることはできません。なぜなら、2次元に見える紙も厚さを持っているので3次元的なものです。厚さを無くせば、厚さの無いものはこの宇宙では存在しないもの、になります。
そして、ここからが大切です。
実は、僕たちがいる3次元の世界ですら、それは自分が仮定しているだけで直接触れることはできないものです。事実、僕たちは3次元の世界を見えているように感じていますが、仕組みとしては2次元の映像を脳内で合成してフェイク3次元を想像しているだけなのです。その意味で、僕たちは2次元世界にも、3次元世界にもいません。
『フラットランド』において、2次元のスクエアにとって、3次元は存在しません。3次元のスフィアにとって、2次元は存在しません。どちらか一方だけが真実として存在しているわけではありません。
次元を超えていくことで、次元にしばられない世界に目を開いていくことができます。
この物語における本当の発見は、自分が存在すると思っていたものが実は存在しないことに氣づくことではなくて……
「存在する」と「存在しない」
両方が対立しないことに氣づくこと。
それは、このビデオでも話している通りです。
ですから、
「スプーンは無いよ」
とネオにドヤ顔でいってる小僧は正解だけれども、同時に間違いでもあるんですね。
「そのスプーンにはきっと、僕が信じている以外のバリエーションもあるのだろうね」
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。