けして引き寄せてはならぬ。
ならぬのだ(笑)
なぜ?
認識が知識になると、それはパワーを失います。
「シキ(識)を得ない者に、シキを語るべからず」
なぜ?
本来、シキは目を開くものです。
けれども、そのシキを知識として取り入れると
目を閉じることになります。
ふむふむ、シキを言葉で耳にするとそれが正解になっちゃう、から、だね。ヒトは自分の知っていることを、新しく知ろうとは思わない生き物だから。
……。
10年くらい前に、「引き寄せの法則」と言われるものが流行ったことがありました。
『ザ・シークレット』
という映画にもなり、きっと見たことありますよね?
内容を憶えている人も多いかと思います。
実は、この映画にはある種の「シキ」が含まれています。
言葉にすれば、何言ってるの、程度のことです。それをどのように表現しているのか、僕は観るのをとても楽しみにしていたのですが、実際に観てみると、きっと観た人は、認識を知識として、さらには方法論として利用しようとするでしょうね。というものでした。
例えば、
「あなたも「引き寄せの法則」を使って、豊かになりましょう
さあ、理想のホームやスーパーカーをありありとイメージして
すると「あなたの重い想い」が原因となって結果を引き寄せるのです」
となります。ざっくり。
それから人は、
過去これまでうまくいかなかった構造を
構造はそのまま
目に見えるパーツだけ、入れ替えるのです。
それはある時点より、さらに限定されたものになります。
シキが知識になると、それはパワーを失います。
なぜかというと、知識は限定を設定するもので、シキは限定を消すものだからです。
何かを「引き寄せたい」と願う想いは、
「今この瞬間は満たされていない」ことの公言です。
その公言は願望というより、欲望。
「今この瞬間は満たされていない」と思いこんだのは、他でもない自分でしょう。
その自分、
ここからスタートする者だけが知識に隠されたシキに氣づくことができます。
ぜひ、こちらの「手放す感覚」を思い出してみてください。
本当の本当の知識は、あなたを限定しません。
本当の本当の知識は、あなたを開いていくものです。
知識に正解も不正解もありません。
この視座からは「どちらが正解?」という問いはなく、どちらも正解として見ます。
知識はどちらかを正解にします。一方で、どちらも不正解、ブッブー、というのが唯識ですね。正解はひとつもないから、正解を認めることはできません。ここで、正解がひとつもないことが正解であるのであれば、まったく同じ理屈で展開し、ありとあらゆるすべてを正解としてみることもできます。
ここにあるのは、
すべて「間違い」ではなく、「ちがい」なんです。
それは変化というバリエーション。
あなたが自分の認識を「間違い」と思いこみ、その「間違い」から視界を開こうとするならば、それはすべて失敗します。
なぜなら、あなたは他でもない自分に「ブッブー」と言ってしまっているからです。それは誰かに言われた「ブッブー」でもあります。どこかの時点でその「ブッブー」を受け入れた自分がいることを思い出せば、その呪縛は一瞬で消えます。
正解がひとつもないことが正解であるのであれば、まったく同じ理屈で
自分に「ピンポン」ということからはじめてください。
世界に「間違い」はなく、「ちがい」のある、「正解だらけ」でも、あるんです。
以上は一言でいうと、あなたが選んじゃっていいんですよ、ということです。
その認識は、原因なんてひとつも無いこの世界の中心において、「自分がたったひとつの原因になる」ということ。
それが、パーソナル・パワー。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。