誰のとなりにも
「自分よりもちょっとエラい他人」がいる。
この「自分よりもちょっとエラい他人」は、様々な教育によって埋め込まれるスタンド。
ほとんどの人は知らないことだが、あらゆる教育(マーケティング)の本質にあるのは、どのように効率良く「自分よりもちょっとエラい他人」を仕掛けることができるか、にある。その断片は、もしかしたらテレビCMやコンビニに並んでいる雑誌や、街のあらゆる空氣感に発見できるかもしれない。
すべての広告はあなたに語りかけてはいない。あなたのとなりにいる「自分よりもちょっとエラい他人」がその言葉をリピしてくれるように、巧妙に語りかける。結果、
「自分よりもちょっとエラい他人」は、自分に対して色々と指示をしてくれる。
「君はそんなことをしてはいけないよ」
「こうなるから、君はこのようにしなくてはいけないよ」
自分にとって未知の自分と出会う機会があれば、すかさずアドバイスをしてくれる。
「そんなの、君らしくないんじゃないかな」
「君には無理。絶対、君には向いていない」
そこにはTSIを基盤とした、理にかなっているメッセージがこめられている。
「君は明日こそ幸せになるのだから、その準備として今日は幸せじゃない選択をしよう」
このアイデアは積極的に誰かをコントロールするために採用されてきた。
明日の王は、今日の奴隷。
そして永遠に今日が続く。
多くの人は「過去の人生の積み重ねがあって、今日という日を生きている」と普通に思い込んでいる。過去の自分が創り出した「結果」としての今の「状況」に、他でもないこの自分は左右されている……それは至極当然のことのように思える。
「自分よりもちょっとエラい他人」は、常に正しい選択をするように強く勧める。
自由意志なんて、幻想に過ぎない。
そこにあるとしたら「何を選ぶべきか?」だけで、脆弱な人間はポジションパワーがある場所からやってきた正しいピンボールに従うだけ。人間ひとりひとりの存在は時計じかけのオモチャにすぎない。
だから、「自分よりもちょっとエラい他人」が指差す選択肢を、ときに「しょうがないから」といって自らの意志に反するかのごとく自らの意志で選択し、ときに「これが欲しいから」といって自らの意志通りであるかのごとく自らの意志で選択する。
「自分よりもちょっとエラい他人」
埋め込まれたそのイメージを、かつての自分が自分の力を使って創り出したことに氣づくと、それを扱えるようになる。そこに仕組まれた発言は、インコやオウムの鳴き声みたいなものだ、と見破ることができる。すると、自然と外からやってくる声に振り回されないようになる。
そして、ある朝
「自分がどう在りたいか? そして、今どう在るのか?」
ただそれだけだったんだと氣づく。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。