「きづき」とは何でしょうか?
「夢」から目覚めること。
自分を取り囲んでいた世界。
その世界が「自分の創り出した世界」であったことに氣づくこと。
「自分」が、この世界のどこにも見当たらないことに氣づくこと……。
僕が正六面体のサイコロを眺めるとき、その視線は一方的なものではなく、双方向性があることを発見します。これはある角度からサイコロをこちらから見ているとき(写真:左)実は、あちら側から見ているサイコロ(写真:右)も意識しているということです。物理的な視覚は一方的ではあるのですが、視覚認識の経験は双方向性を持っています。
サイコロが単なる六角形の影(下の写真の白いカタチ)に見えないのは、3Dの認識が発動しているからです。僕たちの目玉には、2Dしか見えていないにもかかわらず、です。
何かを認識するとき、その何かが存在する次元より1つ次元を上げて、はじめてその何かが何であるのか、を認識することができます。
認識はいつだってひとつ上の次元にあります。
2次元人たちの意識は2次元内ではなく、2次元の外。
3次元の方向に存在しています。
それをわかりやすく物語にしたのが『フラットランド』という物語。
『フラットランド ― 二次元の世界から多次元の冒険へ』
シンクロニシティクラブ刊
エドウィン・アボット・アボット(著)
牧野内 大史(訳と解説)
2次元世界の住人たちがいる世界では、すべてが1次元に見えます。
1次元の世界が見えているから、彼らの意識は2次元を認識できるのです。
フラットランドにいる2次元人の認識は、こうやってテーブルの上に拡がっている2次元世界を上から見下ろすような構図になっています。その認識はテーブルの上にはありません。テーブルから離れた、上、から眺めている状況です。だからこそ2次元人はコインが円形であることを理解できます。
でも実際にはこうやって線 = 1次元で見えています。
物理的な眼は、あくまでテーブルの上にあるわけですから。
この1次元世界を2次元として認識する。
だから、この世界は2次元なのだ、と認識することができます。
鏡に閉じ込められた2次元人
僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごい近くにあるともいえるし、めっちゃ遠くにあるともいえます。その写真の中のどこを探しても、それを見ている自分は存在していないからです。
↑のアリゾナの写真の中に「それを見ているあなた」を探してみてください。
きっと見当たらない、はず?! です。
それでは、それを見ている自分はどこにいるのでしょうか?
写真世界の「あちら側」ではなく、自分はその写真世界の「こちら側」にいるんです。
2次元の外側に折り曲げられた新しい次元を持ってくると……
そこに3Dの僕たちが立っています。
今、僕たちは鏡の前に立っています。
そして、僕たちは鏡の中には閉じ込められていません。
鏡の「あちら側」ではなく、「こちら側」にいるのが、僕たちなのですから。
それでも、ちょっと認識をこじらせれば、鏡の中に閉じ込められた「わたし」を経験することもできます。鏡の中の自分を設定し、いつしか鏡の中に囚われてしまった自分がエゴ。それは自分を制限する認識の枠組みです。
認識について、もうちょっと詳しくお話しようかと思います。
スペクトラ・ワーク。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。