「これはやつらが陰で仕組んでいたことだ」
「現状の悪いことはすべてやつらのせいだ」
そういう陰謀論な情報ってのは楽しいけど、事実に歪んだ解釈がスパイシーに投下されているだけでなく、その視点そのものが
パープルクレヨンを放棄してしまっています。
ですから、あくまでこうした情報はエンターテイメントと考えた方がいいかな?
と思うことが僕にはあります。
さて。
星の王子がある日、こんなことを話したことがありました。
(文献が残っているかどうかは不明)
「皆さんだって、いくらイモに栄養があるからって
イモばっかり食ってるわけにはいかないでしょう」
それはどんな文脈だったか、単に例え話でした。
その村ではイモがよく採れ誰もが食べていたので「それ自体にいくら価値(栄養)があったとしても、そればっかり食べてるわけにもいかないよね」という例え話でした。そして、このときの話は言葉として記され伝わりました。
で、いつの間にか独り歩きして、王子は「イモをけして食べるな」と説かれた。そうやってイモ食を禁じた地域もあったといいます。
Nの書から紐解くなら
認識(=これは「光」と記された)
光を得ない言葉は、ただ独り歩きしていきます。
あるエソテリックでは認識を得ていない者にその認識について話すことを禁じていました。ある若者はこのことをとても疑問に思っていました。
というのも、それは言葉にしてしまえば、その辺にありふれた言葉(情報)だったからです。
「情報が明かされることが問題なのではなく
それがそれ(光)だとは知られてはいけない」
? ? ?
この世界はこれだけ光であふれているのに、なぜ秘密にしなくてはならないの?
その理由が、この若者にはよくわかりませんでした。
けれども、振り返って氣づくことがあります。
それがそれだと知れることは、言葉が人を縛るようなものなんです。
ある日、「この識(光)は正しい」となった瞬間。その光は僕たちを自由ではなく、たちまち奴隷にしてしまいますね。
主客合一、非二元、物心一如、
そーんなこと言ってること自体が、氣づかないうちに対象対置の呪縛になってしまっているんです。
それはアテンションの固定です。
だるまさんは、このことを「不立文字、教外別伝」といったそうです。
対象をそこに対置させていた
その手を離して
そこにそのまま座してみてください。
だるまさんころんだ。
もし、あなたがその言葉を知らなければ。それに出会ったのならその瞬間に。
それが紛れもなくそれであると、あなたには必ずわかるはずです。
それが経験を通して知るということです。
けれども、それを何かの言葉で知ってしまっていると。
それを、何かの対象のように対置してしまっていると。
あなたはその言葉に縛られていて、それ自体を経験しそこねてしまうこともあるんです。つい、僕たちが慣れ親しんだシステム内での
「答え探し」をはじめてしまうから。
呪縛のカーテンは捨て去っていいんです。
ほっといても朝になれば窓から光はさしてくるんですから。
以下は、Nの書からマッキー勝手翻訳で引用します。
農業は4つのエレメントからできている。
信念は土だ。その中にあなたは根をはる。
希望は水だ。それはあなたを養うだろう。
愛は風だ。あなたはそれによって成長するだろう。
そして、認識は光だ。
それこそによって、あなたはあなたになるだろう。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。