写真は移動中に立ち寄った場所から街を見下ろして。
「世界」という言葉。
ここで「世」は時間のこと「界」は空間のこと。
そして「宇宙」という言葉も。
「宇」は無限の空間のことで「宙」は無限の時間のこと。
世界は時間と空間。
かつて、アインシュタインはこんなことを言った。
「私たちは時間と空間の中に閉じこめられた存在だ」
そう、確かに。そうかもしれないね。
僕たちは「時間と空間」の中に存在しているように感じられる。
けれども、もしも、仮に、
あなた自身の中に「時間と空間」を閉じこめているのだとしたら?
仮に、そのように認識することができるとしたら?
TSIという制限は自由にシフトするかもしれない。
TSIというのは、時間と空間のこと。僕たちは、自分がそこに置かれていると思い込んでいる。自分がそこに置かれていると信じると、そこに置かれているように感じながら存在できるようになる。
この仕組みは、『フラットランド』というスクエアが描いた物語を読んでいただくとイメージしやすくなるかもしれない。
3次元世界にとって、2次元世界は存在しない。
なぜなら、2次元に厚さ(奥行き)は存在しないから。
どれだけ大きな2次元世界の土地を引っ張り出してきたとしても、小さじ1杯ぶんの体積だって持っていない。そこにあるのは、厚さの無い面積だけで、それはゼロミリリットルだ。つまり、2次元は頭の中にあるイメージでしかない。
3次元人にとって、自分の影は3次元世界に実体を持たないことを知っている。
けれども、『フラットランド』(2次元世界)に閉じこめられた2次元人にとっては、自分が3次元の射影に過ぎないことに氣づくことができない。2次元の中では、3次元は目に見えな世界であり、影が世界のすべてであるなら、射影の方こそがフラットランドにおける実体なのだ。
話の第2章に入ると、『フラットランド』に球体(スフィア)が登場する。彼は、もしかしたら3次元である自分(球体)の一部がフラットランドに侵入したように感じているかもしれない。けれども、実際はその世界に入り込んだ自分自身はそれはゼロミリリットルだ。
球体(スフィア)をまっぷたつに切る。すると、球体は2に別れ、2つの同じ円の断面ができる。
フラットランド(2次元世界)とは、2つの断面の間にある世界だ。実際、そこにはスペースランド的には何も存在しない。それでも、何かあると仮定して何かあることにしてしまい何かあると信じ込むことはできる。
この物語では、さらに3次元ですら、そのさらに高次元の射影にしか過ぎないことに2次元人と3次元人たちが氣づいていく様子が描かれている。
宇宙ってホントに138億年前にできたのかな? 130億年以上前に誕生、超巨大ブラックホールhttps://t.co/it49GfA08u
— マッキー 宇宙開闢の歌 (@makinoshiki) 2017年12月8日
僕たちが考える世界観・宇宙観では、
138億年前にびっくり爆発ですべてが始まったとされている。
でも、それって本当なのだろうか?
現実とは、ここ最近の宇宙論からいっても、自分が同意している世界観に過ぎない。
自分が同意しているものだけが
「これは現実だ」
という現実になっている。
たった今、この肉体の位置だって、ものすごいスピードで移動しているにも関わらず、誰もが自分なりのポジションを固定的に置いている。本当はじっとしていることなんて不可能なんだけど、じっとしていることができているように信じ込むことはできる。自分は同じここに存在し続けていると、思い込むことができる。
時間と空間は、世界観の根本にあるものだ。
この世界で当たり前のように思われていることに問いを持ってみると、その問いが自分を自由にしてくれることがある、かもしれない。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。