可能世界とシュレーディンガーの猫。

先日、理論物理学者の大栗博司さんのインタビューを聴いていたときのこと。

「科学はけして真理に近づくことはない。明らかになるのは説明できる仮説だけであり近似の理解なのだ」そんな趣旨のことをおっしゃっていらっしゃって、なるほど、と思いました。

「科学は存在それ自体が何であるのか?には答えられないのです」

それもそのはずで、存在そのものは対象になりえないものなんですから……。

現代物理学において科学者が物質の究極のカタチを観察していくと、それは有るとも無いともいえないものでした。観察していないときの物質のもと素粒子の位置は正確に把握できないどころか、それが果たして粒子として存在しているのかどうかもよくわからない状態であるというのです。それでは、

存在とは何なのか?

謎はますます深まっていったのです。

その中でも、「波動の収縮(射影仮説)をどう考えたらよいのか?」つまり「どうして観測した瞬間に、それまで確率でしか存在しなかったものが100%の姿で現れるのか?」これは現代の科学の枠組みでは扱いようのないテーマです。観察する対象が観察者に影響を受けるのであれば、その対象を観察しない状況でいったい何を観察できるというのでしょうか?

量子物理学のアイデアは、あくまでミクロにいえることでマクロについては採用できない、と考えるのが普通です。それは僕たちの世界観とはあまりにかけ離れすぎているものだからです。ミクロの量子世界では、僕たちが普通に感じているルールを超越したことが起きているらしい、そのような認識です。

ミクロの世界とマクロの世界はまったく異なることが起きている。

これは本当でしょうか?

だとしたら、ミクロの世界とマクロの世界を隔てている境界線はいったい何なのでしょうか?

下なるものは上なるものの如く

上なるものは下なるものの如し

コペンハーゲン解釈では、シュレーディンガーの猫の箱を開けた時

1 「猫が生きている現実」
0 「猫が死んでいる現実」

僕が観測した瞬間に、どちらかに波束の収縮が起きます。それまでは2つの状態が重なり合わせとしてあるということで、量子コンピューターはこのような重なり合わせのアイデアが活用されています。

> 量子コンピュータと陰陽論
[https://ins8.net/quantum]

確かに理論上はそうなるのでしょうか、世界は箱を開けるまでは「両方の可能性が重なり合わさっているんだよ」といわれても、僕たちがそのまま納得できるはずがありません。

ヒュー・エヴェレットはこの件について、素朴に。

「それを観測する僕たちだって箱の中にいるんじゃないか?」

と考えました。ほら、観測するのは僕の物理的な肉体なわけだし。エヴェレットの解釈では波束の収縮を考える必要がありません。この解釈だとそのまま「重なり合わせ」でもかまわないということになります。

ネコちゃんの入った箱(ボックス)を無限に大きくしていけば、物理宇宙の繭(コクーン)の中にすべてが存在しています。

それを観測する僕たちですら、その繭の中に閉じこめられた存在なのです。ということは宇宙全体がシュレーディンガーの猫のようなもんです。その繭を開いて観測した瞬間に、可能世界の中からたったひとつの世界が現れるのではないでしょうか……。

これはシュレーディンガーの猫でいえば、観測の瞬間に可能性が分岐するわけではなく。私が「生きているネコちゃんを見た」宇宙と、私が「死んでいるネコちゃんを見た」宇宙その両方が存在するのだ、というわけです。

シュレーディンガーの猫

振り返ってみれば、これまでの科学の世界観では、宇宙はたったひとつのユニバース(単一にまとめられた世界)であることが前提でした。しかし、そこにある宇宙はユニ(ひとつの)バースではなく、マルチ(いくつもの)バースなのかもしれません。

僕たちが単一であると感じているこの世界は、実は、無数のバリエーションから選ばれたものに過ぎないのではないだろうか。そのような宇宙観は古来からあり、漢字一文字で「易」と表現された可能世界でもあります。

それは単純化されたネコちゃんの箱とちがって、宇宙すべてが繭の中にあるのなら、そこにあるすべての可能性を考慮する必要があります。すると、あまりに数が多いのですべての意味が「無」に集束していくでしょう。

もしかすると箱の中身がネコちゃんではなくワンちゃんだったかもしれない、ということになり、さらにはそんな実験しなかったかもしれない、そんな実験をした僕すら存在しなかったかもしれない、すべての「ああだったかもしれない」「こうだったかもしれない」を考えていき、すべてが虚空に消失します。膨大に有りすぎるから、その中では特定の意味が無に還ってしまうということです。

シュレディンガーの猫の思考実験において、ネコちゃんの箱は、

0:死んでいる or 1:生きている

という単純なバリエーションでした。

しかし、この大きな宇宙の繭においては、もしかしなくても「人類が誕生しない」バリエーションだってあるでしょうし、そこには「地球が存在しない」バリエーションもあるわけです。または「地球が生まれたが消失した」バリエーションもあるかもしれませんし「地球ほどではない小惑星ができた」バリエーションもあり、さらにそれより1mm小さな生命のいない小惑星のバリエーションもあり、さらにそれより1mm位置が微妙にズレているバリエーション……という無意味としかいえない無限のバリエーション宇宙(マルチバース)が拡がっている世界です。

バリエーション・易・虚空

「あらゆる可能性が有るということは、何も無いことと同じじゃないか」

確定しないすべて、ということはすべての概念を消し去ることができてしまうのです。そこまで来ると、やっと科学者がこれまで問うことのなかった疑問が生まれます。その問いは、

「今ここに存在している僕はいったい何なんだ?」

ということです。これは可能世界になぜか <私> が存在してしまっている事実をどう扱っていけばいいか? という疑問です。別の言葉でいえば、マルチバースにおいて、なぜ他の宇宙ではなく、このユニバースなのか? という疑問です。

「なぜ、私が存在するのか?」

ここまできて、ようやく自分が世界の中にいるのではないことに氣づきます。

世界の中に閉じこめられた自分が外側の世界を見ている図式なのでしょうか?

そうではなくて、世界が自分の中にあったのです。この世界が <私> と無関係に存在しているはずがなかったんです。この宇宙から <私> を差し引いてしまえば、そこには意味を持つことのない虚無が拡がっているだけ、そこに意味を拾い上げる存在 <私> が不可欠だったのです。

ノンデュアリティというデュアリティ、リアリティというアクチュアリティ。

自分を変える旅から、自分に還る旅へ。

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牧野内大史(まきのうち ひろし)作家、コンサルタント。著書に『人生のシフト』(徳間書店から)スピリチュアル翻訳者として著名な山川紘矢さん 亜希子さんご夫妻 あさりみちこさんとのセッション本(ヒカルランドから)や、監修翻訳を担当した『ソウル・オブ・マネー』(リン・ツイスト著)等がある。2014年にIFEC(国際フラワーエッセンス会議)に日本人ゲストとして登壇した。長野市在住。