見ること、そのとき。
見るものと、見られるものがある。
この構図は常識です。
しかし、赤ちゃんのような無敵の自分で、ただそのままを観るとしたら?
つまり、それは対象を必要としないものです。何かに対して、という視点ではなく、ただ自分自身の目を開くことです。これも言葉で表現するのは、どうかと思うようなことでして。
僕たちはふつう、大人になると、個人的に見たものがそのままイコール、客観的なホンモノではないことを知っています。例えば、夢を見たとき、それがどんなにリアルな経験であっても、朝目覚めれば現実ではないことを知っています。映画だって作り物だという前提で観賞するでしょう。
心の中に再生されている個人的なイメージと、外にある客観的な現実は
必ずしもイコールで結ばれません。
そう思い込んでいます。
そして外部にあるものがホンモノ(誰もが同意できる現実)で、内部にあるものはそのコピー(個人的な複製物)として考えます。
僕らにとって、脳の中で考えたことは、どこまでいっても脳の中で見えた幻想なんです。
ジッパーの左側と右側は似ているけど、ちがうものだよね。
そんな感覚。
コピーとしてのイメージ。
これは「再び、現れる、イメージ」として表象(re-presentation)といわれます。心理学や哲学用語かな。
コーチングや自己啓発などではときどき内部表現:Internal representation とも呼ばれます。あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、世界を見て「心の中に作られたイメージ」といったらわかりやすいかもしれません。
こうした言葉は、僕にはとても不思議な響きで耳に入ってきます。
言葉。
名づけのパワーは強力です。
ですから、外の世界にある「ホンモノ」と、心の中にそれをコピーした「ニセモノコピー(レプリカ)」とがある。そのような対象対置で世界を眺めるとき、その2つはあたかも存在するかのごとく、僕たちの心のジッパーを開いていきます。
本当は、何かのコピーなんて存在しません。
それはゴム風船の内側と外側と同じように相補対待です。
心のジッパーがジリジリと、自分と自分以外の世界を引き裂き隔てていきます。
それがあたかも別々のもののように感じられます。
けれども。
ただ、そのままを、みたらすべてが終わります。
赤ちゃんのような無敵の自分で、ただそのままを観たとしたら。
以前、ここに書いた
「パープルクレヨン」
https://ins8.net/diary/wanderer/purplecrayon.html
というのは、ある特定の認識に僕がつけたラベルです。それは誰もがパープルクレヨンを持っているよ、ってことです。
そこで「え、どこどこ?」と
自分のまわりを探しはじめてしまうのが、あらゆる誤解の源。
必死に探しているパープルクレヨンは、それを必死に探している自分自身だった。
ということです。
もしも、自分の眼の前にどんな世界が拡がっているのか、そこに社会的な評価や物差しなど一切関係なく。ただ、そのまんまを観ることができるならば。その瞬間から、その人は
「自分を変えることができないと、幸せになれない」
そんな社会的な催眠からはすっかり目覚めて…
ただ描きたいように自分の人生を。
ただそのまま表現していくのでしょう。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。