生物が生き残るためには、変化へ対応する必要があります。
ですから、人間を含めすべての生物は「変化」を認識するために各情報器官を持っているわけです。
そこで、ちょっとしたパラダイム・シフト。
変化(運動)しているものを、不変(停止)しているものとして認識してみると、まったくちがった可能性に氣づくことができるでしょう。
僕たちは、本質的には、停止した時間の中を生きています。今は今であり、今がさっきになっても、自分自身はずっと停止した今の中にいるからです。もう少し別の言い方をすれば、僕たちの認識は「今」の中に閉じ込められているのです。
視点をちょっと高次に移してみると、世界は停止します。
これに氣づくことのできるエクササイズが、いわゆる「瞑想」ですね。
ちなみに、僕自身は瞑想の習慣はありません。好奇心やお付き合いで伝授を受けたり、マントラやらヤントラやら様々なものは知ってはいますが。普段からポケーっとはしているので、それが自分なりの瞑想的な習慣になっているのかもしれません。
最強の瞑想は、臨死だと思います。
人は死に直面すると、生に直面します。それは自分の意識が内側にグルリンとひっくりかえる、まさに瞑想状態になります。そのまま自分の内に意識を向け続けていれば、自分が「空間」とも「時間」とも同一化していないことに、びっくりするでしょう。
ずっと停止していたのです。
あらゆるものから同一化することを手放していけば、その瞬間に瞑想しようとする自分も、瞑想する自分がいる世界も、あらゆる時間と空間が意識の中から消滅します。
それは、今まで葉っぱだと思っていたものが木であったことに氣づく瞬間で、今まで木であったものが山であったことに氣づく瞬間。ドミノ連鎖のように、バタバタと見えていたもの、わかっていたはずのもの、概念が消えていきます。
私が「これが私だ」と同一化していたものは、一体、何であったのか?
世界 ー 対 ー わたし
この構造が崩壊・解放されます。
振り返ってみると、そのような体験は強烈で特別な何かをしなくても、普段の生活の中にも多々あるのではないかな、と思います。自分を忘れるくらい何かに熱中しているときや、お風呂のお湯に溶けてしまった感覚になるときや、一日を終えて暖かい布団の中で眠りに落ちる瞬間、など。など。など。
時間に追われた生活を送っていると、忘れがちですけどね。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。