ブドウとリンゴはちがうものです。
子どもに向かって、「これはリンゴだよ」とブドウを差し出せば、「ちがう!」とケンカになってしまうはずです。一方で、「これはクダモノだよ」といえば、ブドウを出してもリンゴを出しても、何の矛盾も起きません。
ケンカを避けることができる。
僕たちは誰もが
「世界はこんなもんだ」
と信じながら生きているので、そこにケンカが起きるとき、世界が足元からグラグラゆらいでいるような危機感を味わうことになります。
それが、パラダイム・シフトです。
ですから、ケンカが起きて、感情的に反応しているとき。それは現実や相手が差し出した世界観と、自分の個人的な世界観の間で、大きな矛盾、相容れない何かが起きているときだったりします。
僕が小学校のとき、「物質は細かく見ていくと、小さなピンポン玉の集まりだ」そのように習いました。もちろん、物質がピンポン玉のように考えていると、緻密に見ていったときケンカが起こります。ニュートン力学はある部分からケンカを起こすようになるのです。
ピンポン玉などは、どこにもありません。
でもピンポン玉はある領域ではケンカを起こさない、ご当地ルールみたいなもの。
「物質は観察してようと、してなかろうと、そこに客観的に存在するもの」
これが崩れてしまうと「おかしい!」となります。
ご当地を出たら、ニュートン力学では「そんなはずはない!」となる。
これまで科学というものは「観測する人によって結果が変わっては困る」ものでしたが、実際は「観測者によって状況が変わってしまう」とわかった時点で、これまでの考え方を根底から変えなくてはいけなくなります。
例外の発見はいつでもパラダイム・シフトなんです。
僕たちは普段の生活では、ほぼニュートン力学の範囲内で活動しています。
しかし、世界をより細かく見ていくと、ニュートン力学がケンカを起こしはじめる領域に入っていきます。薄々、その例外には目をそむけていたものが、詳細にひもといていった結果、明らかにケンカを起こしてしまうもの、と氣づきました。
ここでケンカを起こさないのは量子力学になるでしょう。
ということは、ニュートン力学自体が、量子力学の中にあるもの、ということです。
トランプゲームの大富豪をやろうとしたら、その地域だけでなぜか有効になっているご当地ルールがあったりして驚くことがあります。ローカルルールがローカルである前提で取り組めばケンカにはなりませんが、それが「唯一絶対の正解」として提供された途端にケンカになります。
ゲームを進めたいなら、視点を変える必要があります。
ブドウがたとえ「オレはリンゴじゃない!」とケンカになったとしても、「それでもオレはクダモノなのか」と納得できる領域があります。さらにその外側には、オニギリとブドウはちがうものでも「まぁ、同じ食べ物だよね」と納得できる領域があります。
視点をより高く、より広く、設定するということ。
心の中でケンカが起きているとき。
それは発見された例外です。
境界線にやってきたサインです。
それは、もっと自由になれるということ。
自分の世界を拡げるチャンスなのかもしれません。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。