宇宙の覚醒と時間どろぼう。
ムーアの法則よろしく指数関数的にあらゆる身のまわりの情報形態が劇的に変化し続ける、とても奇妙なこの時代。僕はある日、とある研究者からこんな言葉を聞いたことがあります。
「現代科学は真理の探求、というよりは、予算の探求なんだ」
実際、そのような部分を目にしたこともあります。それでも、予算の追求の影で多くの人たちが自分の才能をあますことなく発揮し、これからも人間のテクノロジーは前進していきます。
その変化と意識の進化は表裏一体です。
レイ・カーツワイル氏は人間のテクノジー進化がこのままいけば2045年ころに「技術的特異点(シンギュラリティ)」を迎え、最終的には「宇宙が覚醒する」と言っています。
・・・宇宙が覚醒する?!
宇宙が覚醒する
As we gradually learn to harness the optimal computing capacity of matter, our intelligence will spread through the universe at (or exceeding) the speed of light, eventually leading to a sublime, universe wide awakening.
この「宇宙が覚醒する」とは、宇宙すべてに知性が満ち渡ることです。
人間の持つ広大な情報が地上だけでなく宇宙にまで拡がっていき、その最適なコンピューティングを実現するために、あらゆる物資とエネルギーが再構成され情報化されていく、のだそうです。まるで物質と心(もしくは魂?)が不可分に融合するような未来像ですね。
「宇宙が覚醒する」というと、あまりに壮大すぎるビジョンで把握しにくいのですが、氏の提唱する進化段階だと現在は「テクノロジーと人間の知性が融合する」段階です。これについては僕たちの身近でも起きつつあって、自分の人生が物質(現実の中にある物質世界)だけで成り立っているわけではないことは理解しやすいと思います。
僕たちにとって「自分」とは、単なる肉体的な自分に留まらず、ある部分においては情報的な存在です。
それは不可分なものです。
例えば、スマートフォン。
このスマートフォンを失うとはどういうことか?
そこに入っている情報や、ネットに属している自分のあらゆる情報を失うとはどういうことか、をイメージすると、すでに自分の人生がある部分においてテクノロジーと融合してしまっていることに驚く人もいるかもしれません。テクノロジーを失うのは、もはや自分の一部を失う感覚です。スマートフォンを使っている人にとっては、それはもはや自分の身体の一部です。
ただ、スマートフォンはそのうち買い替えますよね。
そこにある本質は物質的なものではありません。
それを身体の一部と感じつつも、その本質は中に入った「情報」にあるということです。人間はもはや自分の身体だけでなく、目に見えない情報のネットワークに対して、自分の姿を見出すようになっているんですね。
この状況は意識を加速的に変容させます。
いくつかの段階や目安がありますが、わかりやすい生活の変化としては、
ある段階で人間はお金から自由になるであろう、という予測があります。その進化のシフトの瞬間は、様々な未来学者たちの意見を見ていると、意外と短い期間に。それも、あと10年か20年のうちに、どうやら起きそうなのです。
ベーシックインカムについて
そこで注目されるキーワードに「ベーシック・インカム」があります。
働かなくてもちゃんとお給料、しかも生活していくのに十分以上を受け取れる、という仕組みです。この「ベーシックインカム」は所得保証と考えられていますが、その中身は、人間が衣食住のために労働をしなくてもよくなる、ということです。それは「食べていくための仕事」がこの世界から消える、ということもあります。
これは現代の社会システムの中にどっぷり浸かっていると、意味不明に思えるアイデアかもしれません。
僕たちはお金というシステムに催眠をかけられ、自分の人生が何のためにあるのか、よくわからなくなっています。
ほとんどの人は何かを得る手段として働こうとしています。働くこと自体に喜びを見いだせない状態になっています。結果、ほとんどの人は何かを得る手段として何かを学ぼうとします。学ぶこと自体に喜びを見いだせない学生は、なぜ、学校へ通おうとするのでしょうか?
なぜ、1日のうちのほとんどの時間を嫌なことに費やすのでしょう?
こうした社会の仕組みは素朴な感覚になってみると、とても不思議なことです。
誰も誰にとっての奴隷ではないはずなのに、ある部分では、自分自身を奴隷のように扱っています。これは何の疑問もなく、常識的に起きていることです。もし、ここにあるズレに氣づいたら、意識のシフトはもう目前です。
本来、科学者は予算の追求をする必要がない、のです。
自らの追求したいことを、自分のすべての才能を注ぎ込んで、ひたすら追求していく。探求の方向性を自分で決められるということ。
すると自分の時間の中から取引としての労働は消え、自分の創造性を活かすことに専念すればよくなります。自分の才能を切り売りする必要がなくなります。結果を捏造したり、認められるために主張したりすることがなくなります。本当は望んでいないことを「自分の好きなこと」と錯覚したり自己説得する必要もありません。
過去のパラダイムでは、
「自分の楽しみのために1時間をガマンして、1時間の娯楽に取り組む」
これが当たり前の感覚でした。
働いている時間はガマンして、文字通り「余った」余暇に人生を楽しむ。そんな感じだったかもしれません。1時間の犠牲に対しての1時間のご褒美。だったら、最初から2時間を自分のしたいことに取り組めばよい。というのが、これから先のパラダイムになります。
自分の好きなことを好きなだけ追求できる社会の中で生きていたら、何かを溜め込んだり、人に自慢するために何かを獲得することに、どれほどの意味があるでしょうか。自己実現してしまえば、自己主張のためのあらゆるコストは必要がなくなります。
人間は現状の根本にある、
自分を認められない、
自分を尊重できない、
自分を愛すことができない、
そういった在り方に直面することになります。その埋め合わせのために、自分の外側のものが一切、役に立たないことに氣づいた時。
ここから先が、本当の自由です。
必要なものは何もない
ただただ自分が幸せだと、自己説得するために、自分の価値を他人に証明するために、必要なものは何もありません。
自分がただそこで満たされているのに、他から何かを獲得してくる必要はありません。
結果、お金は消えます。正確にいうと、お金というゲームのルールが変更され、お金の道具的な機能が社会システムに吸収されていくのです。お金が次の進化段階へと進んでいく、と言ってもいいかもしれません。それはきっと、もう「お金」のカタチはしていないでしょう。
ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる寓話『モモ』には、「時間どろぼう」という灰色の男たちが出てきます。彼らは「時間を貯蓄すれば命が倍になる」と偽り、人々を誘惑して人生の意味を略奪していきます。
もし、時間を節約して時間貯蓄銀行に時間を預ければ、利子が利子を生んでいく。そして、もとの何十倍もの命を所有できるのだ。そうやって、人々は余裕のない生活に追い立てられていきます。時間を手に入れるために、かけがえのない人生の時間を失っていきます。
なぜ、人々はいくら働いても豊かになれないのか?
そんな疑念が出発点となり、モモが人々から奪われた時間を取り戻すために活躍するというファンタジー物語です。この物語はとても鋭い点を突いています。時間をお金に置き換えてみなくても、これは現代社会の風刺です。時間どろぼうに騙されて見失っているものがあるんじゃないの、という問いかけの物語です。
時間どろぼうは、幸せどろぼうでした。
きっと、この物語の主人公モモの存在は街の人たち、人間のひとりひとりの内にある
「覚醒」なのだと思います。
僕たちの時代はその「覚醒」の目の前まで来ています。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。