iPhoneに向かってしゃべりました。
僕たちには自分の考えていない「頭の中のおしゃべり」というものがあって、それにもとづいて何かを望んだり、何らかの行動を起こします。
つまり、自分がハッキングされている、ということなんです。
ここで自由ということは、埋め込まれたプログラム外の行動を選択し、場合によっては新しいプログラムを自ら創造できるということをいいます。
それは平たい言葉でいえば
「自分がどう生きたいのか?」
を自分で考え、目の前の人生で顕現させる力です。
ひろい家、いいクルマ、流行りのファッション、理想の生活、行きたいときに行きたい場所へ行ける。ぜんぶ自分の頭で考えたように見えても、社会的に設定された都合のいいプログラムに沿った「自分らしい自我」によって導き出された答えということがあります。
生きにくさのほとんどは、「自分らしい自我」を自分だと思い込まないと、この社会で生きていくのはズレや摩擦が多いということなんだと思います。
ジュリオ・トノーニの「統合情報理論」では、意識の定義を情報の統合と定義しています。情報はバラバラではなく、ひとつの認識になることによって、ただのデータから意識へと変わるということですね。
今、僕の脳を含めた身体は、僕という意識によって統合されています。
意識化されるか、されないかは置いておいて、キーボードをタイプする指は意図通りに動き、指先にはパンタグラフの反発や微妙なキーストロークを感じています。と同時に、足元を通りすぎる冷たい風を感知したりもしています。
それをこの一人、僕が経験している、ということが意識です。
「自分を思い出す」
そのために耳をすませて自分の中に入り込んでくるノイズに敏感になってみてください。
世間にある広告のすべてはノイズです。それはあなたに何かを「欲しがる」ように設定されています。
毎年、何億円というお金、そして多大なエネルギーが、広告に使われていますが、 そのメッセージのほとんどは「あなたには、足りないものがあり、それを欲しがれ」です。
欲しがる理由が無数にあり、その答えが、その商品だったりするわけで す。そして、学校で教えられるのは、「こうすべき」とか「こうしなければならない」そんな、社会における答え、正解です。
いつの間にか、僕たちは自分の欲しいもの、したいこと、望むもの……そのすべてを、自分の内側ではなく、外側に求めるようになってしまいました。
「自分を思い出す」
実は、人間の脳にはすでにそういう機能があって、それがこの「統合された情報」を見ることができるという点です。
きっと疑問をはさむまでもなく、僕たちはそれぞれが自分が自分であることを知っているし、それが見えなくなっているくらい前提になっていると思います。
そんな僕たちがゾンビ映画を見ていて、彼らがなんで滑稽なくらいに同じパターンを繰り返しているように見えるかというと「ゾンビは意識を持っていないから」ということになります。彼らは自分の行動に疑問を持ったり、自分の存在をメタで認知して、自分の存在についての問いかけを一切持つことがありません。
自分の意識を意識したり、自分の認識を認識したり、そういうことが出来ない、ということですね。
意識を持っていなければ、自分の人生に疑問を持つこともありませんし、自分が何を望んでいるのか問いかけることもありませんし、そのような悩みとも無縁です。
だから、この社会システムの中で、うまく適応できない人、違和感を抱えながら生きている人、生きづらさを感じている人。それは、その人が他者と比べて劣っているわけではなく、ものすごいポテンシャルを秘めているということです。
そういう方々に、なぜ、その状況が起きるのか、それを超えていくには、これからメッセージを発信していきます。