お金と自己表現

3S政策と死んだシステム。

3S政策

ある地域を支配する者たちが、そこに住んでいる人たちをコントロールするための愚民政策をよく3Sといいます。その土地の民たちが、体制に反抗しないようにするために活用できる3つの要素、「スクリーン、スポーツ、セックス」の頭文字で3Sです。戦後の日本でも行われて、それから70年以上も継続している方針です。

そのおかげで、日本における「道」の意味はことごとく失われ、勝敗を決して明確な順位を決めるためのショーと化しました。

この策略自体は古いもので、古代ローマのユーナリスが「パンとサーカス」と表現したものも同じです。派手な見世物で多くの人を夢中にさせ、その裏でこっそりと大きなプロジェクトを進めてしまおう、というもの。体制に反抗する者が多くなったり重要な決定をこっそりしてしまいたい場合など、さかんに過激なサーカスを繰り広げ、注意のコントロールと不満のガス抜きとなったのです。

ですから、スポーツ選手が高給なのは当然なことです。

人間を支配する者たちに安定した貢献をしつづけているのですから。

これは人間の欲求に根ざしたカラクリです。

以前、マダガスカルのある小さな村で牛にしがみつく祭りをしている若者たちを見たことがあります。牛にしがみついた時間が長ければ、長いほど、名誉なことなのです。多くの若者がこのゲームに参加し、たまに若者が角でさされたり蹄で蹴られたりして死にます。

僕たちはきっと首をかしげて疑問に思います。

「なぜ、牛に? 死ぬかもしれないのに?」

それは愚問でしょう。

彼らはある時点で「なぜ」と問いかけることをやめたのです。

「なぜ」と問いかけることをやめたとき、モノサシが完成したのです。

モノサシはそのまま自然な空氣感になり、コミュニティでは「当たり前」となり、「なぜ」と問い自体が成立しなくなります。なぜ、と問いかければ、こう返ってくるはずです。

「なぜ、そんなことを聞くの?」

ゲームのモノサシはわかりやすければいい、

それは人間の深い欲求にかなっている仕組みです。地球のどこかの部族によっては、足が大きい人がエライ、足が小さい人が魅力的、そんなモノサシもあるのかもしれません。

ハンガー・ゲームは過激なお伽噺ですが、まぁ、似たようなことは多々あるわけです。

たとえ命を失う危険があっても、ゲームへの参加はやめられません。多くの人が同意するモノサシが一旦与えられると、人は駆り立てられるものだからです。ですから、そのモノサシに、意味があっても、なくても、一向にかまわないのです。

ヒエラルキーをすんなり受け容れられるような構造でありさえすればいい。

モノサシの目的は多くの人に「自信」を失わせることにあります。

自分なんか大したことない、

自分なんてしょーもない存在だ、

ちっぽけで無力なダメなやつ。

自分には選択する能力もなければ、資格もない。

そう思ってもらうためにあります。そして、そのモノサシで命からがら優秀な成績を出した者には、その地域の長を任命します。すると、あら不思議。誰もが納得できる空氣感の中で、そのまま支配構造が完成するのです。

「あいつは、60秒も牛にしがみついていられたから、しょうがないな」

「俺なんて、牛にしがみつく前に角にはじかれちゃったからな」

「だから、何も言えないよな」

「牛に60秒もしがみついたあいつに従うのが理にかなっているだろう」

自信喪失。

そうやって人は源を自分から離れたところに設定します。

ここから自信を取り戻し、自分に源を取り戻すのは、なかなかのチャレンジです。

多くの人の思い込みの中の「自信」とは社会的なあるモノサシに根ざしたその枠組みから派生する「自信」を指しています。

では、存在そのものにおける「本当の自信」とは?

社会に蔓延する思い込みから抜け出してみると……

誰もが、本来の魅力や才能を思い出していくことができるのかもしれません。

自分を変える旅から、自分に還る旅へ。

ABOUT ME
マッキー
牧野内大史(まきのうち ひろし)作家、コンサルタント。著書に『人生のシフト』(徳間書店から)スピリチュアル翻訳者として著名な山川紘矢さん 亜希子さんご夫妻 あさりみちこさんとのセッション本(ヒカルランドから)や、監修翻訳を担当した『ソウル・オブ・マネー』(リン・ツイスト著)等がある。2014年にIFEC(国際フラワーエッセンス会議)に日本人ゲストとして登壇した。長野市在住。