コントロールが「いけない」わけじゃないんですよね。
コントロール「しなくちゃ」という「思いこみ」を手放せ、という意味です。
本質的にコントロールできているときを思い出してみてください。
きっと、その状況からコントロールは消えているでしょう。逆に、コントロールしよう、と思うときは、コントロールを失っている状況です。
もし、自分の人生に違和感があるなら、だいたいの場合では、その自分が生活全般へのコントロールを失っている状況です。さらに、コントロールできない何かに注意が固定され、エネルギーが奪われている状況かもしれません。
例えば、自転車にうまく乗れているとき=うまくコントロールできているとき、その瞬間、その自転車のハンドルにコントロールはありません。ただゆるやかに、ハンドルを握っています。コントロールしようと必死にハンドルにしがみつくとき、そこにはコントロール「しよう」という執着だけがあって、本当のコントロールはありません。ハンドルにはゆるやかに触れ続けているけど、そこには注意が固定されていない状況。
つまり、これが流れにのっている感覚です。
「しなくちゃ」 とか 「しちゃいけない」
と思うなら、それを発生させるすべてのアドバイスは的がどうしようもなく外れています。その視点からは、アテンションが捕らえられ、自分の意識は制限され、自分のエネルギーがだだ漏れ状態です。
アテンションの解放が起きると、そこにはコントロールの感覚は消え、結果、よりコントロールできるようになり、その状況はその人自身の能力を引き出し続けます。このことを僕は「開花」と呼んでいます。
実験1:注意する
意識を何かの対象に注ぎます。
このとき、2つの点があることに氣づいてください。「視点」とは、その視点を向ける対象を指すこともありますし、その対象を見ている場所を指すこともあります。つまり、注意とは1点で起きる出来事ではなくて、必ず2つのポイントを基本といしているということです。
自分が意識を向けるとき、自分は意識を向ける側であり、それは向けられる側ではありません。五感に意識を向けるとき、それは自分の身体感覚に意識を向けているという意味で、さらに奥に意識を向ける側の自分がいます。
デスクのコーヒーカップに注意するとき(意識を注ぐとき)そこにアテンションを向ける側と向けられる側のツーポイントがあることに氣づいてください。
実験2:自分と対象に注意を50%ずつ分割する
これは意識を2次元で扱えるようにする方法です。
自分の眼球で直接その眼球を見ることはできません。かといって、自分の眼球が行方不明になることはありません。同じように、スポットライトはライト自身を照らすことはできません。それでも、それが必ずあるという感覚はしっかりとあります。
自分 注意を向ける側 → 注意を向けている場所
ここに2点とその間の直線が1次元で現れてきます。
1次元からポイントをその次元世界の外側へ飛び出させると、そのカタチは2次元になります。もし、ツーポイントの1次元を見ることができるなら(1次元を見渡すことができるのは、ひとつ上の2次元なので)そこにはスリーポイントがあることになり、そこには2次元世界が立ちあがってきます。
これで2次元ですね。
大抵の問題は2次元的に見れば解決できます。なぜなら、人間である僕たちの視覚は、2次元に閉じ込められています。注意深く視界をながめてみれば、世界は2次元に見えているはずです。
問題に悩んでいる人の意識は1次元に閉じこめられています。何かの問題に巻き込まれ、アテンションの固定が起きているとき、その意識は「良い」とか「悪い」とか、「成功」と「失敗」とか、その程度の1次元的な思考でしかものを考えられなくなっていることが多いものです。少なくとも2次元的に世界が見ることができるようになると、その問題はカタチを変えて見えるはずです。
僕たちはある意味で2次元人です。
2次元しか見えていないからです。
すべての視界は「視界という平面」の色のちがいでしかありません。
フラットランドの2次元人には、1次元の線しか見えません。その1次元の視界を通して、縦と横の2次元を認識しています。僕たち3次元にいる者にとっては、ペラペラの、視界の2次元面しか見えません。その2次元面を通して、縦と横と奥行きの3次元を認識しているわけです。
きっと、4次元人には目の前の世界が、立体的に見えているでしょう。立体像を通して、さらにその上の、4次元を認識しているはずです。
<つづく>
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。