前世療法:思い出のブライディ・マーフィー(1)
潜在意識:思い出のブライディ・マーフィー(2)
超光速子:思い出のブライディ・マーフィー(3)
僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごく近い場所にありともいえるし、めちゃくちゃ遠くにあるともいえます。その写真のどこを探しても、それを見ている自分はどこにもいないからです。
それでは、自分はどこにいるのか?
写真世界の「あちら側」ではなく、自分はその写真世界の「こちら側」にいるんです。
その写真の世界に映りさえしない背景、
こちら側にある背景(コンテクスト)が自分です。
これは当たり前のことに思えるかもしれません……。
今、僕たちは1枚の青い四角のタイルを目にしています。
この1枚の欠けたタイル自体は、あまり情報を語っていないように感じられます。
けれども、青いタイルをいくつか集めてみると、見え方が変わります。
シャノンによる情報の定義では、それが表現できる情報状態の可能性にこそ、その情報の本質を見ることができます。
ちょっと簡単なコンピューターなら、タイルの枚数を数えることができるかもしれません。もしかすると、色を見てカラーコードを打ち出してくれるかもしれません。
それでも、ここに「壺」を見つけるプログラムはどれくらいあるでしょう?
もし、これを見たのが人間であれば「壺」として見る人もいれば、もっと別の見方をする人もいると思います。
そこでシャノンの考えを借りるなら、「これがネコには見えていない、これがイヌには見えていない、これがカメには見えていない……」その無数の可能性を切り落としたものが情報なのだと考えることができます。
ここでの無数の可能性は、人間が認識でき得る可能性であり、人間のすべての意識状態であり、それ自体は、この世界のすべてを含んだ背景のすべて、です。
つまり、
背景=コンテクストが、そのコンテンツ=内容の意味を生み出しています。
僕たちは、目の前に見えるどんな世界よりも、「背景(コンテクスト)」にいます。
「コンテクスト(背景)」という言葉は、普段の生活ではあまり使わない言葉かもしれません。
この言葉について通訳さんとどう訳すのが適当か? あれこれ話していたとき、『ソウル・オブ・マネー』著者リンは、こんなふうに指をひとつ立てて教えてくれました。
ここにある意味は?
コンテクストが「身体」なら、これは「右手の人差し指」を意味します。
コンテクストが「数字」なら、これは「1」を意味します。
コンテクストが「方向」なら、これは「上」を意味します。
とってもわかりやすい解説だと思いました。
背景は目に見えるコンテンツ(情報内容)ではありません。それでも、そのコンテンツはコンテクスト(背景)によって、まったく意味が変わるのです。
そして、数字も方向も、人差し指ではありません。
そこで大切なのが、
コンテンツ(内容)のコンテクスト(背景)というのは、そのコンテンツのどこにもいない。
ということです。
『フラットランド』という物語の中で、2次元世界に住むスクウェア(三角形)にスフィア(球体)が
「君は3次元のほんの一部分を2次元として経験しているんだよ」
説いたところで理解されることはありません。
そもそも、2次元が何かも理解されていないからです。
スクウェアは2次元が世界のすべてだと思いこんでいましたが、2次元の中から「まあ、これが2次元だろう」という妄想を抱いていただけです。2次元を知るためには2次元から出なくてはなりませんでした。
スクウェアの視点を3次元の世界にはみ出してみて、はじめて2次元の世界がどういうものだったのかを、発見します。その世界から抜け出たことによって、その世界がはじめて見ることができる、そんなことがあります。
一度、そのフラットランドから抜け出てみれば、
スクウェアのいう「私」は、フラットランドのどこにもいませんでした。
それは、その世界のずっと「背景」にいました。
球体を2次元で切り取ると、仮に円として見ることができます。そのコンテンツ(円)は、コンテクスト(球)がフラットランドに映し出されたものですが、その円をどれだけ集めたとしても、球体にはなりません。フラットランド(2次元)には厚さがないので、スペースランド(3次元)には存在しないからです。存在しないものをどれだけかき集めても、スペースランドの存在にはできません。
それでは、スペースランドに住まう(と思いこんでいる)僕たちが。
もし、スクウェアと同じような経験をしたとしたら。
その「背景」とは一体、この宇宙のどこにあるのでしょうか?
……つづく。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。