ある朝。
強烈な後悔の念とともに目を覚ましたことってありませんか?
直前に見ていた夢の内容はよく憶えていません。それに何に後悔していたのかもわかりません。けれども、とても大切な何かに氣づいたような瞬間。
もし、夢の中で……
美味しそうな特大ケーキを目の前にして「でも、これ食べたら太っちゃうからなー」と、それを食べることをガマンしたとします。その直後に目覚たとしたら、「あー夢だったのかー。だったら、食べておけばよかったなー」と思ってしまうかもしれません。
夢から目覚めて、その瞬間に不安に感じていたことが、すべて幻想だったことに氣づいたからです。
これと同じように、この社会システムには、たくさんの「夢」が仕掛けられています。
僕たちはまるで夢を見るように、自分が「今、その夢を見ている」ことに、まったく氣づきません。
つまり、この世界では「目が覚めている」という認識が、一番の昏睡状態だったりします。
実は、その無数の夢から覚めているのは、眠っているとき。
まるで入れ子構造のように、夢の中では目覚めている意識があり、また、その夢の中で眠っている意識もあるということです。夜、起きている意識状態を失ったとき、そこには別の世界が目を開いています。
一度でも、死に瀕した経験(死を自覚した瞬間)があれば、この理屈。よくわかるんじゃないかなーと思うのですけど、どうなんでしょう。
直前のそれまで、あれこれ悩み事や抱えていた問題があったとします。それが思わぬ死に瀕した瞬間に、ビンタを一発くらったような勢いで目覚めます。
そして、自分はこんなにも美しい世界にいたのか、ということに驚きます。走馬灯をながめながら思うんです。生きて存在していることだけで、それがどれほどかけがえのない価値あることか。これまで自分が心から求めていたものが、こんなに自分の近くにあったこと。そして、そのことに自分が少しも氣づかなかったことに、心から驚きます。
多くの人にとっての人生は、
それは、青い鳥を探す「自分を変える旅」のようなもの。
他人の目線によって創り出された「理想の自分」と、現在の自分を比べ、すり合わせする試行錯誤そのものです。そして、何かが間違っているってこと、何かが正しいはずだってこと、こういった、どーでもいいことを証明しようとして、正当化しようとして必死に、一生懸命にがんばっている自分がいます。
自分のまわりには円のカタチ、ちょうどね、フラフープのようなものがあります。
ここでのフラフープは、社会の中での自分の「ポジション」を象徴化したイメージです。
誰もが人生の中で、そのフラフープを拡げようと必死にがんばっています。フラフープを広げることで、誰かから評価されるのではないか、と希望を持っています。フラフープをこのくらいにすれば、きっと幸せになれるはずだ、そう思いこんでいます。
でも実は、このフラフープのゲームでは、フラフープを大きくする必要はありません。
そこに
ただ、フラフープがあるな。
そう氣づいたら、すべてが終わります。
フラフープは、けして大きくなりません。
自分が、ただ今フラフープを持っているな、そう氣づいたら
もうすっかりポジションの世界から抜け出しています。
フラフープにしがみつくことをやめて、ただ自分に還る。
追伸:
僕が若い頃の話です。
何もかもを失ったとき、たまたま出会ったオジサンがこんなことを言っていました。そのオジサンは、ずっと昔に幼い娘さんを事故で亡くしたことがあったそうなんです。それから、僕が自分の人生がどれほど最低か、自分がどれほど無価値かを語った後……
その話を黙って聴いていたオジサンは、ぽつりとこう言いました。
「それがどんなに辛いものであったとしても。
娘が生きてそれを経験してくれていたら、オレは涙ながして喜ぶけどな!」
地球は、意識が身体を持って使って経験する星。
右手と左手の思いこみを持っている、身体を伴っているヒトだからこその経験があります。それは、手を合わせたいほどに尊い経験でしょう。
易という変化。
バリエーション ✕ バリエーション。
この星でのバリエーション豊富な種々経験には
良い体験もなければ、悪い体験だってありません。
良い、悪い、と判断している自分がいるだけ。
その自分原点に還ったら、この星の、ありとあらゆるすべてが黄金に輝いている。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。