何かを「想うこと」は何にも制限されませんが
ほとんどの「想うこと」は自分に限られて知覚されています。
では、その、自分とは?
「現在の状況を変えたい」と悩む人にとって、本当に変えたいものは、その「状況」には見つかりません。実は、問題のほとんどはその状況には無いんです。
本当に変えたいと願っているのは他でもない
「自分 = 私」のことです。
多くの人は、世界で唯一の存在、確固たる存在として
「自分 = 私」を認識しています。
けれども、それについてのどの内容を引き出してみても、その「自分=私」は自分以外の誰か(何か)に対してのポジションであることに氣づきます。つまり、私が自分だと思っていたものは、すべてがポジション・パワーだった、ということです。
多くの人にとって自分は対象ではありえません。
それが対象として存在し続けているのは、なぜなんでしょう?
僕の本名は、牧野内大史といいます。
人体は水素63%、酸素26%、炭素9%で構成されていて、そのほとんどの元素はほんの数年で入れ替わってしまいます。それでも、数年後、僕は社会の中では、やっぱり前と同じ「牧野内さん」と呼ばれます。
ちょっと不思議じゃないですか?
もしも「現在の状況を変えたい」と悩む人が、このことに目を向ければ、今まで悩んでいたことはすべて「他人(社会)が作った自分」からであったことがわかります。他人が都合の良いように作った自分によって、その枠におさまりきらない自分が悲鳴を上げていたんです。
その「他人が作った自分」から抜け出すこと。それはこの社会では、けしてカンタンなことではないかもしれません。でも、とてもシンプルなことではあります。
先日、「自由の発見」について書きました。半分冗談のようには書いていますが……自由は火の発見以上に文明をダイナミックにシフトさせる可能性があります。
自由とは、その定義上「自分とは何者か?」に氣づいた者だけに開かれています。
……ずっとずっと、その昔から
「運命は所与のもの」というアイデアは広く信じられてきました。
それは支配者達にとっては、わりと都合のよいアイデアでもあったんです。
ここ最近では、スピリチュアルな視点を通しての「自由意志は無い」ということも(逆の理屈も含む)それなりに知られるようになってきました。もし、そこで。そこで、自分のことを、自由の無い状況。すでに決まっている運命という道すじを転がるピンボール(マシン)のように感じたとしたら……
それは、大きなまちがいです。
すべてはそう思い込まされてきただけの、ポジション・パワー上での認識です。
自分はピンボールにはなり得ません。
たとえ、あなたがそのピンボールゲームに参加していたとしても、ピンボールマシンの中にあなたは存在しないのですから。それは、あなたは「どこにも存在しない」という流行りの視点ではなく、反対に「圧倒的に存在する」ということでもあるんです。
あなたは圧倒的に存在するからこそ、ゲームに参加することができます。ピンボールマシンの中の、どのピンボールよりも、あなたは圧倒的な存在感を持っているはずです。
ですから、その参加しているゲーム盤。
その盤上のどこを探してもあなたは見当たらないはずです。
そりゃあ、そうでしょうよ。
ゲーム盤上で、自分を探さないでください。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。