DNAの二重らせん構造を発見し
ノーベル生理学賞を受賞したフランシス・クリック。彼は、こんな仮説をたてている。
「人間の自己意識と自由意志は、無数の神経細胞の集まりと、その中の分子の動き以上のものではないよ」
つまり、人は優秀なプログラムをほどこされた有機コンピューターを搭載する
単なるロボットだ。
クリックはこの仮説について、多くの人にとって信じられないものだろうが……と、前置きしている。
「自由意志はあるのか?」
この問いかけに対して誰もが、「ある!」だったり「ない!」それなりの意見を持っていると思う。僕はきっと「ある!」と答えるだろうけど、それがある人にとっての「それ!」とは限らないわけで。自由意志という主体をどのような「それ!」として位置づけるかにすら、色々な考え方があるだろう。
そして、それはそれなのか、これこそ話題の要点だ。
昔、人工知能の開発に関わったとき僕が痛感したのは、「プログラムは自由意志を持つことができない」ということ。
自由意志はプログラムすることができない。
プログラムにとっての、自由意志とは何ぞや? 僕の答えは、「それがランダムであること(乱数)」だ。でも、僕らにとってのランダムは、自由意志とはちょっとちがう? いや、かなりちがうじゃないか!
人工知能は公園の砂場を前にして、「自分が何を創りたいのか?」思いつくことはない。何をクリエイトするのか、緻密なアルゴリズムで、またはポイッと出た乱数で決めることはできても、そこにある何かを感じるとることはできない。まだ。
そう遠くない未来、人工知能は今よりもっと街中にあふれているだろうけど、社会システムは主体についての考え方が固定的だから、その辺りで議論が起きるはずだ。
ロボットはクリエイターになりえるのか?
(そもそも、僕たちはクリエイターたりえるのか?)
自動運転で事故を起こしたら、その責任は誰がとる?
(そもそも、ふいの事故は誰かのせいになりえるのか?)
といったようなこと。
まず、自由意志について、その主体を……
・主体を物理的に固定された「対象」としてとらえるか?
・主体を「対象」の外のものとしておくか?
ピンボールがピン!ポン!パン!と衝突し合った最終結果を自由意志とするのか、そんなピンボールゲームの外側にあるものとして考えるのか。これによって変わってくるだろう。
ドイツ、ベルリンでの最新、脳研究では(脳の中に自由意志なんて発見できるんだろうか? と思うけど、結果としての痕跡を探しているのだろう)
「自由意志は幻想ではなく、確かに存在する……ただし、ほんの0.2秒だけ」
だそうだ。
もしも、ほんの0.1秒だけでも、何かを自由に選択する力があるとしたら……
それは充分すぎるようにも感じる。
一瞬は永遠だ。
クリエイター✕クリエイター。
僕たちにとっての、それ、は時間軸におさまらまいものだ。宇宙をビッグバンの瞬間まで遡ろうと、宇宙最期の瞬間まで先取りしようとも、その時間軸のどこにも「自分自身」を発見することはできないのだから。
パーソナル・パワー。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。