クオリアとわたしのカンケイ:わたしはいない。

クオリアとわたしのカンケイ。

満月を前に、「わたしはいない」の誤解について語ってみようかな、と。

まず、これを見てください。これは何色ですか?

赤色のクオリア

これを見てあなたの心に生じたもの、それは「赤」というものだと思います。

この赤の質感、感覚のことを「クオリア」といいます。

つまり、ここでは、↑のイメージを見ることによって「赤のクオリア」があなたの心に生じたとなるわけです。

しかしこれは、他の人には確認のしようがありません。隣人に確かめてもらおうとしても、隣人の赤のクオリアと「わたし」の赤のクオリアが同一のものかは、証明のしようがないことです。

もしかすると、隣人はまったく違ったクオリアを生じているかもしれない。それでも、お互いに「これが赤だよね」と同意するならば、その疑問は消え去ります。おそらく、ほとんどの人がそれで納得できるでしょう。それでもやはり、哲学者のような変人は、「隣人にはまったく違う世界が見えているのではないか?」という確かな可能性と不思議を否定できないままでいるのです。

クオリアの問題を乗り越えさせてくれたのは、言葉、でしょう。

言葉を使えば、そこには言葉の意味への同意があります。それが指し示すモノ自体はそれぞれ別のものかもしれないが、「まあ、これは赤でいいよね」という同意によって、心の中に生じたものを「赤」という共通の言葉で表現しています。そうしている間は何の問題も起こりません。

これを逆にいえば、「言葉によってクオリアが生まれている」ともいえます。

そもそも「赤」という言葉がなければ、クオリアを比較したりクオリアを設定すらする必要もありません。わたしも隣人も、すべての人がそれぞれの世界をそれぞれの瞬間に見ているだけです。ですから、「まあ、これが赤というものだな」と考える必要自体がないのです。

この意味で世界のすべてのクオリアと言葉を切り取っていけば、最後に残るものが「わたし」です。

「わたし」は「わたし」以上に還元できない、なぜか、他の人ではない、この「わたし」……。

もしも、ですよ。パーマンのコピーロボットで自分をコピーし、静かに元の「わたし」が消えたなら、世界の誰一人として「わたし」が消えたことに氣づく者はいません。コピーロボットは自分が「わたし」だと思いこみ続け、ただ「わたし」はそっと世界から消失します。それでも、74億の隣人たちは、そのことに氣づくことがありません。そのことに氣づくことができるのは、ただ「わたし」一人です。

だからこそ、ハイデガーは「死はもっとも固有な可能性である」と言ったのでしょう。「わたし」の消失は「わたし」によってしか、経験し得ないものだからです。この意味を拡げていけば、サルトルが言うように「あらゆる経験」が「わたし」にとって自己固有の可能性ともいえます。

なぜかというと、

「わたし」と同じ「内容」の経験をしたとしても、それは「わたし」ではないからです。

「わたし」が経験していないのなら、世界のすべての隣人にとっては同じでも

「わたし」にとってはまったく違った意味を持つはずです。

それが「わたし」と同じ「内容」だったとしても、「わたし」でない以上は

「知らねえよっ」

と、なるのは当然でしょう。

だって、「わたし」ではないのだから。

つまり、

「自分の人生を生きること」は、それを言う「自分」と同じ「内容」の人生を生きることではありません。

それは、コピーロボットにでも可能なことです。コピーロボットに可能なことを固有な可能性とはいえません。ですから、「自分の人生を生きること」の本質とは、実のところ、その「内容」の中にはどこにもない、と言うこともできます。

つまり、こうなります。

「わたし」は「わたしの内容」の中のどこにもいない。

「わたし」は何モノにも還元できない、ということです。

これを「わたしはいない」という言葉でオチをつけてしまってもよいのですが、それは活用しようのない概念です。だって、現に「わたし」は生じてしまっているわけだから。だからこそ、世界のすべてを内容に還元することから離れて、もう一歩、さらにアイデアを進ませることができます。

昔、昔、ですね、ある東方の国の王子が、修行のすえに「自分に実体がないこと」を発見しました。これは現代においては「無我」という言葉で伝わるのですが、大変、誤解の多い言葉かと思います。

これは実は、「自分がいない・自分を消す」という意味での無我とはちがうんです。
(僕は彼ではないから、彼の意味することを正確に把握はできないけれども)

「あなたが川に足を踏み入れるとき、同じ流れの中には二度と入ることはできない」

といったのは理論物理学者のデビットボームですが、この川と同じように、あなたにとっての「わたし」は固定された同じ状態であることはできない、ダイナミックな流れの中にある、それが「わたし」なのだ、ということです。

その流れに、アテンションの固定が起こしてしまうことが、あらゆる悩みと苦しみの根源だと王子は考えていたようです。

つまり、自分がいない、ではなく、自分ではないものを自分の固定された所有とみなすこと。

さらに、自分に固定された不変の実体があるとみなすこと。

このことについての否定がこの「無我」というメッセージにはあるわけですね。

それでは、その「わたし」とは何か?

ありとあらゆる「内容」と同一化しない、ほんとうの「わたし」とは?

自分を変える旅から、自分に還る旅へ。

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牧野内大史(まきのうち ひろし)作家、コンサルタント。著書に『人生のシフト』(徳間書店から)スピリチュアル翻訳者として著名な山川紘矢さん 亜希子さんご夫妻 あさりみちこさんとのセッション本(ヒカルランドから)や、監修翻訳を担当した『ソウル・オブ・マネー』(リン・ツイスト著)等がある。2014年にIFEC(国際フラワーエッセンス会議)に日本人ゲストとして登壇した。長野市在住。