思い巡らしたのは1分もなかった。本能的に、自分の経験を妻には隠しておくべきだろうと感じた。妻がその秘密を漏らしてしまうと考えたわけではない。ただ、フラットランドのご婦人には私の冒険物語はとても理解できないと思ったのだ。そこで私は地下へ向かうふたから落ちてしまい、氣を失って倒れていた、という作り話で妻を安心させることにした。
この世界での南方引力はとても弱いものだから、私の話はほとんど信じられない異様なものであったはずだ。しかし、妻は並のご婦人よりもはるかに常識があり、私の異常な興奮をみると、あれこれ問い詰めることもなかった。体調がすぐれないのならもうお休みになってください、とだけ強く意見した。
私はありがたく部屋へ戻り、これまで何が起きたのかを静かに振り返ることにした。そして、一人きりになると、すぐにでも眠ってしまいたくなった。それでも眠ってしまう前に頭の中で、3次元を、特に正方形が動いて立方体になる姿を再現させようとした。
はっきりと再現できたわけではないが、「上を目指せ、北ではなく」という方向へ動かさなければならないことを思い出した。この言葉をしっかりと記憶しておこう。すべて忘れてしまっても、この言葉を理解することで、私は答えに戻ってくることができる。「上を目指せ、北ではなく」と難度も繰り返しながら、さわやかな眠りへと落ちていった。
眠っている間に夢を見た。スフィアがそばにいる。その光沢の色合いを見て、彼が怒ってはいない穏やかな状態であることがわかる。私たちは明るい極小の点に向かって一緒に歩いていた。彼はその点に注意しなさい、と促した。その点に近づいていくと、スペースランドの銀蝿のようなブーンという音が聞こえてきた。その音はとても小さいものだったので、静かなこの場所でもかなり近づくまではよく聞こえなかった。
あれを見て、とスフィアは言った。
「君はフラットランドに暮らし、ラインランドを目の当たりにし、私とスペースランドの高みへと上がった。そこで次は、君の経験を完全なものにするため、存在の最も低いところまで下がろう。次元のない、奈落の底、ポイントランドだ。
このあわれな生き物を見てごらん。あの点は私たちと同じように生きている。
しかし、次元のない割れ目に閉じ込められているのだ。彼にとっては彼自身が世界のすべて、宇宙そのものだ。彼は自分以外の概念を形成することができない。長さ、幅、高さを知ることはない。経験したことがないからね。2という数を認識しない。何かが複数あることを想像もできない。
なぜなら、彼にとっては、自身が唯一で完全な存在、何もない状態だ。それでも彼は自己満足している。そして、その姿から学ぶことがある。自己満足に陥ることは恥ずべき無知だ。無力な自分に満足しているよりも、目を開き志す方が良いことだ。さあ、聞きなさい」
彼は黙った。すると、小さく鳴いている小さな生き物から、単調ではあるもののはっきりとした音が聞こえてきた。それは、あなたのスペースランドにある蓄音機から聞こえてくるような音だった。その音からはこのような言葉が聞き取れた。
「存在スルコト、無限ノヨロコビ。ココニハ、ソレガアリ、ソシテ、ソレシカナイ」
「小さな生き物のいう、ソレ、とは何のことでしょうか?」
そう私が尋ねると、自分自身のことだよ、とスフィアは答えた。そして、「これまで氣づいたことはないかい?自分と世界を区別できない赤ちゃんが自分自身のことを三人称で呼ぶのを。しっ静かに!」小さな生き物の独り言は続いている。
「ソレハ、宇宙スベテヲ満タス。ソレガ、満タスモノ、ソレガソレ。ソレガ考エタコトヲ、ソレガ話シ、ソレガ話シタコトヲ、ソレガ聞ク。ソレコソガ思考デアリ、言葉デアリ、聴覚。ソレハヒトツデアリナガラ、スベテノ中ノスベテ。アア幸セ、存在の幸セ!」
「あの小さなものにショックを与えて、自己満足から抜け出させることはできないかな。ソレが本当はどんなソレなのか、あなたが私にしたように伝えるんです。自分が何者かを教えて、ポイントランドがいかに狭く限られた世界かを明らかにし、より高みに導くことはできないのでしょうか?」と、私は尋ねた。
「それは簡単なことではないね。試しに君がやってみたらどうかな?」
そこで私は精一杯の声で、その点に語りかけた。
「静かに、静かに。あなたは自分のことを、すべての中のすべてといっているが、あなたは無だ。あなたが宇宙といっているものは、線の中のただの点にすぎない。そして線も……」私をスフィアは遮って「もういいだろう、ポイントランドの王様に君の演説がどんな影響を及ぼしたか、聞いてみるといい」と言った。すると、その点が前より強く明るく輝いているのが見える。私の言葉を耳にして王は怒っているようだった。
そしてすぐに王は歌うように独り言を再びはじめた。
「アア、ヨロコビ。考エル事ノヨロコビ。ソレガ考エルコトデスベテ成サレル。ソレ自身ノ考エガソレ自身ニヤッテキテ、挑発的ニ罵倒スル。ソレニヨッテ幸セヲ強メテイク。甘イ反逆ハ心ヲカキ回シ、ソレニ心ハ勝利スル。アア、神聖ナ想像ノパワー!ソノヨロコビ。存在スルコトノヨロコビ!」
わかったろう、とスフィアは言った。
「君の言葉はほとんど何もできなかった。あの王は自分に理解できたことだけを自分の考えとして受けいれるのさ。彼に自分以外の何者かを想像できないからね。そして、ソレが多様な考えを持っていることを、自分の創造力だと思い込んでいる。ポイントランドの神には、このまま彼自身の全知全能を実現した無知でいていただこう。彼を自己満足から救うために君や私ができることは何もないからね」
私たちはふわりと浮いて、フラットランドへと戻ろうとしていた。スフィアは優しい声で、さっき見た世界の教訓が何であるかを語り、私が意志を持つことで他の者たちにも意志を持たせることができることを教えてくれた。
そして、彼は告白した。はじめは私の3次元の超える次元に行こうとする意志を知って、とても腹が立ったこと。しかし、それからスフィアは新しい氣づきを得た。その認識によって、生徒に自分の過ちを認められないほど強慢ではいられなくなった、ということだった。
それから彼は、私がこれまで見てきた以上のミステリーについて語ってくれた。
そのすべてを「アナロジーに厳密に従って」はっきりと簡単かつシンプルに、ご婦人たちも理解できるような形式で私に教えてくれた。どのように立体が動いて超立体ができるのか、そしてどのように超立体が動いてさらなる超立体を構築するのか、私は確かに目撃した。
『フラットランド―二次元の世界から多次元の冒険へ』
エドウィン・アボット・アボット(著) 牧野内 大史 (翻訳)
つづく…… 第21章 多次元の冒険 3次元の講義
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。