私の行為は無駄に終わった。私がもっとも固い右の角を訪問者におもいっきりぶつけ、ふつうの円であれば破壊できるほどの力をこめて押し込んだ。だが彼はするりと抜け出していく。右でも左でもなく、この世界の外へと消えてしまった。
そこには何も存在しない。しかし、声だけは聞こえてきた。
スフィア:なぜ、理性から耳をそむけているのだ?君は理性ある優れた数学者だ。だから、3次元の福音を伝える使者としてふさわしいと望んでいた。これを説くことは、千年に1度しか許されていない。どうしたら君に確信してもらえるのだろう。待てよ、こうしよう。言葉ではなく、行動によって真実を伝えよう。いいかい、友よ。
私のいる場所からは、君が閉じていると思っているもの、すべての内部が見えると伝えたね。例えば、君のそばの戸棚の中に君が箱と呼ぶものがいくつかあるね。そこにはお金がいっぱい入っている。2冊の記録版も見えるな。これから戸棚に降りて記録版の一枚を持ってこようか。30分前に君が鍵をかけてその鍵は今君自身が持っている。しかし、私はスペースから中に降りるから扉は動かす必要がない。さあ手にしたぞ。よし、持って昇ろう。
私は戸棚に駆けより扉を開いた。記録版がひとつ消えている。来訪者は笑いながら、部屋の隅に姿を現した。記録版も床の上に現れた。すぐにその記録版を手にして確認すると、それはまちがいなく消えたものだった。
私は自分の頭がおかしくなったのではないか、恐ろしくなって声をあげた。しかし訪問者は話を続けた。
「どうだろう、私の話をわかってくれただろうか。それ以外にはこの現象を説明する理屈はない。君たちが立体と呼んでいるものに本当は厚みがない。そして、君たちが空間と呼んでいるものは、じつは大きな平面だ。
空間にいる私には、君たちには外側しか見えないものの内側を見降ろすことができる。君もじゅうぶんな意志を使えば、この平面から離れることができる。上か下に少し動けば、私が見えているものが見えるはずだ。
そして高く昇り、君の平面から離れれば離れるほど、よりたくさんのものが見える。そして見える大きさは小さくなる。例えば、今の私は上昇している。そして、近所の六角形とその家族がそれぞれの部屋にいるのが見える。今度は劇場が見える。10のドアが外され、聴衆たちが帰るところだな。ちがう方向では、円が書斎で本を読んでいるようだ。
さあ、君のところへ戻ろう。この決定的な証として、少し君にふれてみようか?胃のあたり、ほんの少しだけ。怪我はしないだろうし、もし多少の痛みがあっても、その体験から得る心的恩恵に比べれば大したこともない」
やめてくれ、と止める前に突然、私は内臓に痛みを感じた。笑い声が自分の内部から聞こえてくるようだった。その後、鋭い痛みはすぐになくなり、かすかな鈍痛だけになった。そして、再び訪問者が姿を現しはじめる。次第に大きくなりつつ、こういった。
「ほら、怪我はしなかっただろ。これで信じさせることができなければ、もう私にはどうしたらいいかわからない。どうかな?」
私は覚悟を決めた。鼻持ちならない魔術師のトリックで胃にいたずらまでされて、一方的にやられることなど我慢できるはずがない。なんとかして助けが来るまで、こいつを壁に押さえ込んでおかなければ。
私は再び尖った角を向けて相手に飛びかかると同時に、助けを求めて叫んだ。その瞬間に来訪者は空間から消えようとした。なかなか上昇はできないようだったので、私は力をこめて相手を押さえ込み助けを呼ぶ叫び声を出し続けた。
スフィアは全体が激しく震えていた。こんなことがあってはならない、彼がそういったように聞こえた。
「君が私の話を受けいれるか、それとも私が最後の手段を使うか。そのどちらかだ」
さらに、スフィアは大きな声で叫んだ。
「君が見たことを他の人に見せるわけにはいかないのだ。奥さんが部屋に戻るようにしろ。三次元の福音をこんなふうに失敗させるわけにはいかない。千年待った、このチャンスを捨てるわけにはいかないのだ。彼女がやって来るのが聞こえるぞ。下がれ!下がれ!私から離れろ。そうしないと私と一緒に行くことになるぞ、君の知らない3次元の世界へ!」
「愚かな狂人め!不正規図形!」
と私は叫んだ。絶対に離さないぞ、お前にはこの詐欺の報いを受けさせてやる。
「はは、そうか、来るのか。ならば運命と向き合うがいい。君は平面から出る。1、2、3、さあ!」
『フラットランド―二次元の世界から多次元の冒険へ』
エドウィン・アボット・アボット(著) 牧野内 大史 (翻訳)
つづく…… 第18章 多次元の冒険 スペースランド(3次元)の世界へ
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。