妻が去って平和の叫びも聞こえなくなると、私は来訪者に、お座りくださいと席を勧めながら、よく相手を見ようとして近づいた。しかし、その姿に驚いてしまって何も言葉にできず立ち尽くしてしまった。
わずかな角がないにもかかわらず、彼は大きさと輝きを変化させていた。このような姿は私の知っているどんな図形ともちがっていた。もしかしたら、恐ろしい不正規図形の強盗が円のフリをして家に入り込み、まさにその鋭角で私を突き刺そうとしているのではないか。そんな疑念が頭をよぎった。
居間には霧がないため、それにとても乾燥した季節でもあり、視覚の認識をそのまま信じるわけにはいかなかった。特に、近くに立っていると視覚認識はとても難しいものさ。恐れのあまり、私はぶっきらぼうに失礼、と声をかけてから相手にふれてみた。
妻のいったとおり、どこにも角がない。不均一なでこぼこも一切ない。これほど完全なる円には会ったことがない。私がまわりをぐるりと歩く間、来訪者は動かないままだった。彼の目からぐるりと再び目に戻ってきても、やはり彼は円そのもの。どこをとっても、疑いようもない完全なる円だった。
それから対話がはじまった。私の思い出せる限りそのときのことを話していこうと思う。まあ、円に対してのたくさんの謝罪の言葉は省いてね。私は正方形の分際で円にふれてしまい、なんという無礼なことをしてしまったのだろう、恥ずかしさでいっぱいだった。私がお詫びの言葉を長々と聞くのにイライラしたのか、来訪者の方から話し始めた。
来訪者:ふれる、のはもういいかな?自己紹介は済んだろうか?
私:どうぞ私の無礼をお許しください。思いがけない訪問に驚き、少し緊張もあってこのようなことをしでかしてしまいました。この軽率な行動はどうぞここだけの話に、特に妻には秘密にしてください。しかしながら、あなたとの話を続ける前に、私の好奇心を満たしてくださいませんか。あなたはどこからやってきたのでしょう?
訪問者:スペースからやってきた。空間だ。他に、どこからと?
私:失礼ながら、今この瞬間に、あなたも私もすでに空間にいるでしょう?
訪問者:ふむ、スペースについて君はよく知っていると?では君にとっての空間について定義してみてくれ。
私:スペース、空間とは高さと幅がどこまでも広がっているものです。
訪問者:確かに、君は空間が何かを知らないようだね。そこには二次元しかないと思い込んでいるだろう。しかし、ここに来たのは第3の次元があることを、君に知らせるためだ。
スペースとは、「高さ」と「幅」と「長さ」だよ。
私:それなら私たちも、「高さ」と「長さ」そして「幅」と「厚さ」という言葉を使っています。2次元を語るのに、私たちは4つの名前を使いますからね。
訪問者:いや、私がいっているのは3つの言葉ではなく、3つの次元のことだよ。
私:では、第3の次元はどの方向を指し示すものなのですか? ぜひとも私に説明してください。
来訪者:私はそこから来た。第3の次元とは、上下方向のことだ。
私:あなたがおっしゃっているのは、北と南のこと、なのでしょうか。
来訪者:そういった方角ではない。君の見えない方向のことを言っている。君の側面には目がないからね。
私:失礼かもしれませんが、私は2つの辺の間にちゃんと明るい目があるんですよ。どうぞ、よく見てください。
来訪者:ああ、そうだね。しかし、空間を見るためには目がなくてはいけない。それも辺の境界線ではなく、君が内側と呼んでいる場所にね。スペースランドで私たちはそれを「側面」と呼んでいるのだ。
私:内側に目を!胃の中に目があるとでも!またまた、ご冗談を。
来訪者:冗談ではない。私はスペース、つまり空間からやってきた。空間の意味がよくわからないのであれば、3次元の国としておこうか。そこから君のいう空間を見下ろすと、3次元からは君たちが立体と呼ぶもの、四方を囲まれたもの、何もかもがすっかり丸見えになる。君の家、そして教会、たんすに金庫、君の内側の内蔵や何もかも。
私:そんなこと言葉にするだけなら簡単です。
来訪者:証明は難しいと、証明してみせろということかな。ここに降りるとき、君の4人の息子である五角形たちが、それぞれの部屋にいる様子が見えた。孫である二人の六角形もね。小さい六角形たちはしばらく君と一緒にいた後で自室に戻って、君と君の奥さんが残された。二等辺三角形の召使いが3人、夕食の時にキッチンにいたね。食器洗いをしていた小さな給仕もね。それらを眺めながらやって来た。どこからやって来たと思う?
私:屋根からでしょう。
来訪者:そうではないよ。君の家の屋根は最近修理したばかりですき間はないだろう。私はスペースからやってきた。そうでなければ、子どもや家族の状況を説明できない。
私:そうはいっても、あなたは様々な方法で情報を得ることができたはずです。近所の人たちに聞けば、それくらいのことすぐにわかることでしょうし。
来訪者:どうしたものだろう。そうだ、ひとつ説明する方法を思いついた。君は直線、例えば君の奥さんを見るとき、彼女には何次元があると考えるだろう?
私:まるで数学など無知な者を相手にしているようないいかたですね。ご婦人が本物の直線で、たった1次元しかないと考えているとでも?
いいえ、この正方形はそれほど愚かではありませんよ。それにご婦人は直線といわれていますが、科学的にはとても薄い平行四辺形です。つまり私たちと同様、長さと幅または厚さといったものがあるわけです。
来訪者:しかし、ただ線だけが見えるだけでも、実際にはもうひとつの次元がそこにはあるわけだね。
私:ご婦人には長さだけではなく、幅があることは私も知っています。長さは目に見えますし、幅だってどれだけ薄くても、必ず測ることはできるでしょう。
来訪者:まだ理解できていないようだね。君がご婦人を目にしたとき、長さを見てその幅を推測するだけではなく、私たちが高さと呼ぶものを認識しているはずだ。この高さの次元は、君の世界では限りなく小さなものだよ。線が長さだけで、高さを持たないとしたら、空間に存在することもなく見えなくなる。君にもこのことはわかるだろう?
私:私にはまったく理解できない話ですね。フラットランドでは、私たちが線を目にして見えるのは、長さと明るさです。高さではありません。明るさが消えれば、線はない。つまり、あなたのおっしゃる、空間に存在することをやめた状態になります。ということは、あなたは「明るさ」も次元であって、それに「高さ」という名前をつけて呼んでいるということでしょうか?
来訪者:けしてそうではない。「高さ」というのはね、長さのようなひとつの次元なのだ。しかし、君たちの世界での「高さ」は極端に低いものなので、簡単には知覚できないだけだ。
私:確認させてください。この私にも第3の次元、あなたがいう「高さ」があるわけですね。次元には方向と長さがあるはず。では、私の「高さ」を測ってみてください。もしくは、私の「高さ」がどの方向に伸びているのかを示すだけでもかまいません。そうすれば私はすぐに納得できますよ。それができないのに、ただ理解しろ、というのは無理な話でしょう。
来訪者:どちらもできるはずがない。どうすれば理解させることができるのだろう?そうだ、事実を簡単に説明した後で、それを実際にやって見せるのがいいかもしれない。
よし、聞いてくれ。
君は2次元平面の上で生活している。フラットランドは、私たちの世界でいう「液体」と呼ばれる物質の広大な水平面上のような世界。その上というか、その中にあって君たちはその薄い水面を上に出ることも、下に落ちることもなく、動き回っているのさ。
私は平面図形ではない。立体だ。君は私を円と呼んだが、実はひとつの円ではなく、無数の円だ。ひとつの点から最大の直径が33センチまでの無数の円が、積み重なってできている。
このように私がフラットランドの平面に横切ると、君たちのいうところの「サークル」つまり、円の図形でその断面ができる。これは、この私たちの世界でいう「スフィア」だ。球体さ。しかし、フラットランドの住人の前に現れるためには、円として顕在化するしかないのだ。
君は憶えているかな?私はすべてを見渡すことができるから、昨晩、君がラインランドの夢を見たことを知っている。憶えているだろう。君がラインランドに入るとき、四角形としてではなく、直線として王様に会っただろう。1次元の世界には、君のすべてを現すことのできるだけの次元がないからだ。
これと同じように、この2次元の世界には、私という3次元の存在がその姿をすべて現すことのできる空間がない。だから、君たちが円と呼ぶ断面を見せることしかできないのだ。
この話は君にとって、とても信じられないことかもしれない。しかし、私のいっていることが真実だとこれから証明してみせよう。確かに、君が見ることができるのは私の一部、つまり円だ。それは君がフラットランドから抜け出して空間を見上げる力がないからね。それでも、私の断片は小さくなっていくのは見ることができるだろう。これから私は上へ向かって昇って行こう。すると、私は小さくなっていくように見え、そして最終的には1点が残り。ついには、それも消える。
私に「昇って」行くという動きは見ることはできなかった。
しかし、来訪者はどんどん小さくなっていき、ついには消えた。まるで夢を見ているようで、私は何度かまばたきをした。夢ではない。どこかもわからない方向から、うつろな声が聞こえてきた。どうやら私の心臓のあたりから聞こえてくる声らしい。
「私は完全に消えたろう、わかってくれたかな?よし、これからゆっくりフラットランドへと戻ろう。私の断片が次第に大きくなっていくのを見ることができるはずだ」
スペースランドにいるあなたなら簡単に理解できるはずだ。私のところにやってきたこの神秘的な客はシンプルな真実を語っていた。しかし、この理解はフラットランドの数学については達人といえる私にはとても難しいものだった。スペースランドでは子どもであっても、球はこの図にあるような形で上へ向かって昇っていき、はじめは最大の円であったものがどんどん小さくなっていく、そして、点に近づいていくことが理解できるだろう。
しかし、私には現象を目の当たりにしているのに、どうしてそのようなことが起きるのか、まったく意味不明の出来事だ。わかることは、円が小さくなって消え、また姿を現して、今度は大きくなっていったことだけさ。
来訪者は大きなため息をついた。私が黙っていたので、私が理解できなったことがわかったのだ。それどころか私は、来訪者が円ですらなく、巧妙な手品師なのだと思いはじめていた。そうでなければ、年配のご婦人たちが話題にするような、あやしげな魔術師が実在したのだ。
長い沈黙のあと、来訪者はぶつぶつと「行動で示さなくても、まだ方法はある。アナロジー、発想推論を使ってみよう」などと言っていた。それから、さらに長い沈黙の後、再び語りはじめた。
スフィア:ここで数学者さん、教えてくれ。もし点が北に動き、光る航跡を残したとする。これを何と呼ぶ?
私:直線でしょう。
スフィア:それでは、直線の端はいくつある?
私:2つですね。
スフィア:さて、北向きの直線が、続いて平行に東西へと動く。こうすると、直線の各点の航跡が残る。この図形をなんと呼ぶ?その直線が、直線自身の長さと同じだけ動いたとしたら、それを名前は何だ?
私:正方形といいます。
スフィア:そして、正方形に辺と角はいくつかな?
私:4つの辺と角があります。
スフィア:では、ここでちょっとしたイメージのストレッチをしてみよう。フラットランドにある正方形が、それ自身より上へと平行に動くとする。
私:え、どこへです?北へ、ですか?
スフィア:いいや、ちがう。上の方へだ。フラットランド外へ向かって動かす。
北へ動くのであれば、正方形の南側は北側が存在した場所を重複して通ることになるだろう。
そうではなくて、私が説明しているのはこういう意味だ。君は正方形、四角形だ。だから、君のすべての点、君が自分の内側だと思っているすべてが、どれひとつとして他が存在していた部分を通らないように、上へ向かって空間を動く。すると、それぞれの点がまっすぐな線を描いていくはずだ。これらはすべて発想推論だ。つまりアナロジーを重ねてきたわけだが、はっきりしただろう。
私はこの来訪者をフラットランドの外へ突き落としてしまいたいような衝動を感じた。そして、いらいらを抑えながら何とか答えた。
私:それで、私があなたが嬉しそうにおっしゃる「上の方」という動きをしたとして。そこから形成される図形とはどのようなものなのでしょうか?フラットランドの言葉でも、それくらいは表現できるでしょう。
スフィア:もちろん。それはシンプルでカンタン。そしてアナロジーにぴったり適応している。ただし、この結果として存在するものは「図形」とはいわないのだ。それは「立体」というべきものだ。それについて君に説明していこう、アナロジーによってね。
私たちはまず1点から始めた。点はそれ自体が点のため、当然、その端としては1点しか持たない。
ひとつの点を動かせば、2点の端を持つ線ができる。
ひとつの線を動かせば、4点の端を持つ正方形になる。
ここまでくれば、この問いに君自身が答えを出せるはずだ。1、2、4点。これは明らかに等比数列となっている。次の数はいくつかな?
私:8でしょう。
スフィア:その通りだ。ここには1つの正方形から生まれたもの。君はまだ名前を知らないが、私たちは「キューブ」または、立方体と呼んでいる、何か、を生み出した。それには8点の端を持っているといえる。納得できるかな?
私:その生き物の側面には角、というか、あなたが端と呼ぶ点もあるのでしょうか?
スフィア:もちろんだよ。アナロジーに厳密に従うとそうなる。とはいえ、この側面とは私たちのいう「辺」のことだ。君はその集まりを「立体」と呼ぶことができる。
私:それで、私が「上の方へ」に動くことで形成される、あなたが「立方体」と呼ぶ存在。その立方体とやらには、いくつの辺ができるのでしょう?
スフィア:それはもう聞かなくてもわかるだろう? 君はすぐれた数学者だ。辺とは、それ自体より次元がひとつ少なくなるものだ。
ところが、点より小さい次元は0になる。そのため、点には辺はひとつもない。
直線には2つの辺がある。線の両端、この2点が辺になるからね。
正方形には、4つの辺があるだろう。0、2、4。さてこの数列は何だ?
私:等差数列です。
スフィア:では、次の数は?
私:6です。
スフィア:その通り。君は自分自身で答えを導くことができた。君から生まれる立方体には6つの辺、これは正しく言うなら6つの「面」というものを持っている。立方体にはフラットランドでの君の内側が6つ、正方形が6つあるということだ。これで、すべて理解できただろう?
「このモンスターめ!」
私は叫んだ。お前が手品師か魔術師かそれとも夢か悪魔か知らないが、これ以上ばかにされるのはたくさんだ、「やってやる!」そう私は叫びながら、彼に向かって突進していった。
『フラットランド―二次元の世界から多次元の冒険へ』
エドウィン・アボット・アボット(著) 牧野内 大史 (翻訳)
つづく…… 第17章 多次元の冒険 スフィアの思わぬ行動
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。