写真:プラハ旧市街広場にて。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
この名文において、「国境の長いトンネルを抜け」たのは、いったい誰(それとも何)なのでしょうか?
うーん。
主人公の島村? これを書いている川端康成?
それとも、読んでいる読者なのか? 列車? そこに乗っている客?
これを英語にするとこうなります。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
そう、トンネルを抜けたのは The train だったのです!!
多くの英文は主語を明らかにします。けれども、このような簡単な文でさえ英語にしてしまうと、何かとても大切なエッセンスが抜け落ちてしまったようにも感じます。
きっと、トンネルを抜けたのは列車でもなければ、主人公の島村でもない
ここでの主語は「誰でもない」のかも……しれません。
この主語であり、主人公にあたる当事者としての記号「I」。ほとんどの人は「I」部分に何かハッキリした、根拠確かなポジショナルなものを自分の外側の世界から引き込もうと努力します。
例えば、自分という主語の実体を明らかにしようとするとき、まずは「名前」を名乗るでしょう。
「私は◯◯です」
それは確かに「自分の名前」かもしれま せんが、「名前が自分」ではありませんよね。
同姓同名の方がいるかもしれませんし、名前がなかったとしても「自分は自分」です。
同じように、職業や趣味など、自分に関するあらゆる情報を次々にあげていったとしても、詳細で膨大な情報のどれを使っても「自分という存在そのもの」を示すことはできません。
すると、あなたは自分のカラダをさわって、それが自分と思うかもしれません。ここに、 自分が存在しているじゃないかと。でもすぐ、それは「自分のカラダ」であって、「カラダは自分」ではないと氣づきます。
つづいてそれならと、今こうやって考えている思考や、感じている感情、感覚などを思い浮かべるかもしれません。けれどもやっぱり、よーく考えてみると、それは、「自分の考えていること」であって、「自分の考えていること=自分」 ではないのです。
本当の自分とは、何の付箋も貼られていない、
空っぽの自分。
もっとわかりやすく言えば、「この人生が起きている場」のことを言います。
あなたがこの文字を読み進めている経験、そのまま呼吸をしている感覚、このすべてが起きている、
今ここの場です。
本当の自分とは、家が建てられた土地、その場のようなものです。
それは……
あるがままに何もない、ないがままの場です。
まわりからは、「家=自分」のように見えます。でも、その「家=土地」であるはずがありません。むしろ、そこには何もなかったから、「本当のあなた」である場の上に目に見える様々なものを引き込むことができました。
ほとんどの人は、その「ないがまま」に、他人からの期待や、社会の理想、望ましい意見を持ち込もうとします。
そうやって持ち込んできたものが、どれくらいあるのでしょう。
多くの人の「あるがまま」は創られた「あるがまま」です。
ですから、本当の「あるがまま」は「ないがまま」だったりします。
人によっては「自分が好きなもの」の場にすら、「他人がそう望むもの」を引き込んでいます。
そうではなくて、誰かにそう言われたから、ではなくて、「ないがままの自分」が好きなものを何でもいいから、引き込んでも許されると氣づいたとき。他人が期待しないものを自らに期待し、その場を何で満たし、どのように彩ろうが、あらゆるすべてが自由なのだと氣づいたとき。
その瞬間が、人生の意味がまるっきり変わってしまう
パラダイム・シフトなのかもしれません。
自分を変える旅から、自分に還る旅へ。