たとえば、宇宙のどこかにね ひとつの惑星があって 核ばくだんのボタンを押してね そのすべてが 一瞬でシャボン玉のように消えた。 そして、そのボタンを押したのがね もしも 他でもない自分だったとしたら、…
時間と空間は、世界観の根本にあるものだ。この世界で当たり前のように思われていることに問いを持ってみると、その問いが自分を自由にしてくれることがある、かもしれない。
100円玉をくるっとまわしたら、あるごく限られた面からは円形に見えますが、ある場所では長方形に見えています。これをフラットランドの2次元人が見ていたら、その形が刻一刻と変化し続けているように認識できます。
「もうちょっとよく現実を見ろよ!」
と、誰かが言ったとき。この「現実」とははたして「洞窟の壁に写った影」のことを指しているのか? それとも、壁から振り返った3次元の世界(影のもとになった実)を指しているのか? によって、まったく意味が変わってきてしまうのです。
主人公スクエア君の前に現れたスフィア(球体)は、3次元のスペースランドこそが、真実の世界=イデア界であると力説します。自分の世界こそが真実の世界であり、2次元のフラットランドは、3次元の影でしかない。これは洞窟の影の話とまったく同じ仕組みですね。
ちょっとした思考のストレッチを。0次元の点を認識できるのは、1次元からそれを見ることができるからです。2次元の面を認識できるのは、3次元からそれを見ることができるからです。フラットランドの住民たちは、2次元世界にいながら、2次元が何であるか「1次元の線を使って」認識することができます。それは、彼らの意識が、ひとつ上の次元にあるということです。
僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごい近くにあるともいえるし、めっちゃ遠くにあるともいえます。その写真の中のどこを探しても、それを見ている自分は存在していないからです。
それでは、自分はどこにいるのか?
それから私はこっそり数ヶ月かけて、3次元のミステリーについての論文を書きあげた。そうはいっても、法律にふれる可能性があるため、なるべく物理的な次元についてはふれなかった。そして、あくまで理論上の話の、ソートランドの物語として論文を書いた。
あの子には数学の才能がある、まさにぴったりの生徒だ。まずは孫を相手に実験してみよう。あの子の3の3乗についての素朴な指摘は、スフィアだって認めたことなんだ。それに、ただの子どもとこの話をしたところでまったく安全だ。あの子が議会の宣言など知るはずもないのだからね。
君はフラットランドに暮らし、ラインランドを目の当たりにし、私とスペースランドの高みへと上がった。そこで次は、君の経験を完全なものにするため、存在の最も低いところまで下がろう。