僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごい近くにあるともいえるし、めっちゃ遠くにあるともいえます。その写真の中のどこを探しても、それを見ている自分は存在していないからです。
それでは、自分はどこにいるのか?
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僕たちが一枚の写真を眺めるとき、その写真の2次元世界は、すごい近くにあるともいえるし、めっちゃ遠くにあるともいえます。その写真の中のどこを探しても、それを見ている自分は存在していないからです。
それでは、自分はどこにいるのか?
あたらしく提示されたアイデアは、還元主義的な考え方、機械論的な考え方、つまり「物質によって宇宙ができているのだ」という思いこみへの往復ビンタのようなもんです。物質はそこにあり、時間の経過で例えば移動して、別の物質にぶつかったら、それが原因となって結果、ぶつかった物質が弾かれる……というような、あくまで時間と空間(TSI)の中に確固として存在している物質……これは当たり前の見え方でした。
僕は英字でこの文をタイプするので、文字入力のために30に満たないキーが並んでいます。そのキー情報はバラバラに配置されていて、あらかじめ固定された前後関係を持っていませんし、あらかじめ決められた意味もここには存在はしていません。そして、こうやって順番に画面に映ったキーに触れていくと、そこに関係と言葉と意味が生まれていくわけです。
人は「世界を客観的に観ること」などできない。なぜなら、見ること、それ自体に自分も参加しているから。人は「世界を中庸な見方で観ること」などできない。なぜなら、自分との差異から生まれる意味を使って、はじめて見ることができるから。
人が火を手にしてから鉄を作り出すまで氣の遠くなるような歳月がかかった。ピストン式の蒸気機関が生まれるのは、それから数千年。原子力が実用化されるのは、それから数百年。機械がチェスで人に勝つのは、それから数十年。技術の進歩はめまぐるしく加速している。
コントロールが「いけない」わけじゃないんですよね。コントロール「しなくちゃ」という「思いこみ」を手放せ、という意味です。本質的にコントロールできているときを思い出してみてください。きっと、その状況からコントロールは消えているでしょう。逆に、コントロールしよう、と思うときは、コントロールを失っている状況です。
原文をあたってみると、実はどうやら大本の方は『思考は現実化する』とは言ってなかったらしいんですね。そして、さっさと結果(現在)を受け取ろう。
Φ − 「今のバリエーション以外のすべての可能性」 = 今のあなた 今のあなたには「そうなるかもしれなかった」すべての可能性が内包されている。それは、それ以外すべてのバリエーションのあなたの手が、今のあなたの背中を押してくれているということ。その手のぬくもりは、虚空に秘められたあらゆる可能性の総体。
埋め込まれたそのイメージを、かつての自分が自分の力を使って創り出したことに氣づくと、それを扱えるようになる。そこに仕組まれた発言は、インコやオウムの鳴き声みたいなものだ、と見破ることができる。外からやってくる声に振り回されないようになる。
選択がひとつの結果であれば、その原因は「自由意志による選択」ということになりますよね。そこで、よく考えてみると……その原因ですら、何かの結果にしか過ぎませんから、あらゆる意志選択は無限後退しがちです。