「自由を手に入れる」という言葉で表現される、自由です。その自由とは背中に羽がはえるような、軽やかなイメージでしょうか? それとも、何かを背負うような、重くて固いイメージでしょうか? 基本的に自由とは、強制・拘束・妨害などを受けないことを指します。積極的には、自分の意に従うことを指します。
多くの人が問題を解決できずに悩んでいるのは、問題が何かすらわかっていないからです。これを「忘れてしまった」と言い換えてもいいのかな。もし、適切な問いかけがなされたのなら、そのまま問題は、解決するのではなく、すっと解放されます。
自由であることは大切だなあ、と思いつつも、
「自由になるための7つのステップ」
みたいな構造は、ときどき、僕を「おやっ」とさせるんです。
〇〇メソッド、〇〇ワーク、〇〇の習慣……きっと……
習慣をプラスしていくことが成功につながると、思い込むとき。
107つの習慣が「108つの習慣」になったのなら……もっと……
「それは間違っている!」というとき、そういう自分がどんな正しさを「信じ続けたい」のか? 問いかけてみると、思わぬ発見をすることがあります。なぜかというと、人は自分が「これが正しくあるべき」ってことを信じ続けることができるように、他人のアイデアを「これは間違っているだろう」と信じこもうとするものだからです。
コントロールを手放せ!
そんな言葉を聞きます。
けれども、コントロールが「いけない」わけじゃないんですよね。
コントロール「しなくちゃ」という「思いこみ」を手放せ、と。
いうことなんじゃないかと。
本当にコントロールできているときを思い出してみてください。
その瞬間からコントロールは消えているでしょう。
1940年のこと。
マルセル少年たちは4人で森を探検していたところ、連れていた犬のロボが発見した穴。彼らがその中に入っていくと、そこには多くの壁画が描かれていました。それが、2万年前のクロマニョン人が描いたとされるラスコー洞窟の壁画。
現在は保全のため非公開となっているラスコーの壁画を詳細に再現した、いわゆる「ラスコー3」が国立科学博物館にやってきているというので、ちょうど都内に寄ったタイミングで行ってきました。
今日は新月ですね。 僕はこの新月は出張中 あちこち移動中でして、実験的に初めてiPhoneから更新してみます。 どきどき。 さて、先日ご紹介した『ラブ、安堵、ピース 超訳 老子道徳経』はこちらのアウル…
これら個々のサイコロも単なる面ではなく、いくつかの面がひとつに統合されています。その統合点に注目すると、情報そのもの、はもちろん、それが置かれたコンテクスト(背景世界)がそのコンテンツ(情報内容)の意味を生み出していることがわかります。
いつかその小さなクリスタルが発動するときには、僕から聞いた話どころか、僕の存在自体すら、その人は忘れているはずです。
けれども、その瞬間に起きる経験だけは、永遠に忘れないでしょう。
コンサルタントとして色々な種類のプロジェクトに関わって氣づいたことは、あらゆるすべての問題が究極的には、「たったひとつのこと」に行き着いてしまう、ということです。