私の目の前には、たくさんの短い直線があった。当然、それはご婦人だと私は考えたのだが。その線の間には、さらに短く光る点がちらばっていた。そのすべてが1本のまっすぐな線の上を、私が見る限りでは同じ速さで動いていたのだ。
円の教義は簡単に言ってしまえば、「汝自身の形に注意しなさい」ということになる。政治、教会、道徳、いずれにしろ彼らの教えは個人と集団における形の向上を目指すものである。もちろん、その中で円はもっとも特別な形であり、その他のすべての形の上に立つ。
これまでフラットランドについてとりとめもなく説明してきたが、もうそろそろ話の核心について、すなわち、私がスペースの神秘に触れたときのことを話していくことにしよう。これこそこの手記のテーマであり、これまでの話はすべて前置きにすぎないのだからね。
簡単な色の認識によって生活上の困難を克服できるようになり、もはや両者は同等なのだと。視覚による認識技術を「独占的な技術」として禁じるべきだという意見もあった。資格による認識、数学、触覚の研究に対しての寄付も禁じるべきだ、という声も出はじめた。
そりゃあ、退屈でも当然だろう。
景観も歴史的な作品も、肖像画、花、静物画、あらゆるものが1本の線で、違いは明るさと暗さの度合いくらいなのだから。
ずっとそうだったわけではない。歴史が正しく伝わっているのなら、かつて遠い昔、6世紀以上前には、私たちの祖先の生活には輝かしい色があった。ある人物が、この人物は五角形で名前は諸説あり、その彼が偶然にも色を作り出す成分と方法を発見した。
とはいえ問題は長さよりも、辺の長さが等しいかどうかなのさ。それはフラットランドの社会生活のすべてに影響があるし、基本的な事実として図形の辺を等しくさせる意志を自然法則は持っている。
あなたには光と影を認識する目がふたつあるだろう。そのことで遠近感を備えているし、様々な色彩を楽しむこともできるよね。あなたは実際に角を見ることができて、素晴らしい3次元の世界から円周をまるっきり観察することさえできる。
そんな能力に恵まれているあなたに、フラットランドでお互いの形を識別することの難しさをわかっていただけるだろうか?
兵士階級の尖った三角形が手強いのなら、私たちの世界のご婦人がさらに手強いことは簡単に予想できるだろう。兵士がクサビだとしたら、ご婦人は針なんだから。いわば全身が、少なくとも2つの先端は点になっている。