メモ元:『奇跡のコース 第1巻 テキスト―普及版』から
ヘレン・シャックマン (著), ウィリアム・セットフォード (編集), ケネス・ワプニック (編集), 大内 博 (翻訳) ナチュラルスピリットより出版
#エゴの力学
誰も幻想を見ることなくして幻想から脱出することはできません。というのは、見られないことによって幻想は守られているからです。幻想から後ずさりする必要はありません。というのは、幻想は危険ではあり得ないのですから。私たちにはエゴの思考体系をより接近して見る準備ができています。なぜなら、力を合わせればそれを払拭できるランプを私たちはもっているからです。
知識に至る道を塞いでいるものすべてを除去することこそ癒しです。そして、幻想を守ることなく幻想を直視する以外の方法では、幻想を振り払うことはできません。そのようなわけですから、恐れないでください。というのは、あなたがこうして見るであろうものが怖れの根源であり、怖れは実在しないことをあなたは学び始めているからです。
“エゴの力学”という用語自体には何の意味もないということを理解することから、“エゴの力学”のレッスンを始めましょう。この用語には、それを無意味にしてしま用語上の矛盾が含まれています。”カ学”は何かをする力を暗示しますが、分離という誤った考えのすべては、エゴには何かをする力があるという信念に基づいています。これを信じているが故に、エゴはあなたにとって恐ろしいのです。しかし、真実はきわめて単純です。
エゴの目標はきわめて明らかに無分別なものであるために、エゴのために費やされるいかなる努力も無に帰することになります。エゴの目標が自律であることは明らかです。したがって、エゴの目的は最初から分離することであり、自足することであり、自分自身の力以外の力から自立することにあります。だからこそ、エゴは分離の象徴なのです。
すべての考えには目的があり、その目的とは常にその考えの本質の自然な結果です。エゴから発するものはすべてエゴの中心的な信念の自然な結果であり、その結果を解除する方法は、そのような念の源は不自然であり、あなたの真の性質と一致していないと認識することだけです。
目に見えるものを信じないことは不可能ですが、信じていないものを見ることも等しく不可能です。知覚は体験に基づいて築き上げられ、体験は信念につながっていきます。信念が固定してはじめて知覚が安定します。とすれば、あなたが実際に見るものは事実上あなたが信じていることです。私が、”見ずして信じる者こそ幸いなるかな”と言った意味はこれだったのです。
#投影の究極的な目的
この問題に関しては、あらゆる分裂の中でも最も深い分裂が生じます。というのは、エゴが強く主張するように罪悪感を保持しようとするなら、あなたはあなたでいることはできないからです。それがあなたであると説得することによってはじめて、エゴはあなたを誘導して罪悪感を投影させることが可能となり、そうすることによって罪悪感をあなたのマインドの中に保持させることが可能となります。
しかしながら、エゴの取り決めがいかに奇妙な解決策であるかを考えてみてください。罪悪感を取り除くためにあなたは罪悪感を投影しますが、実際には罪悪感を隠しているだけです。あなたは確かに罪悪感を体験していますが、なぜそうなのかはまったく分かっていません。それどころか、あなたは罪悪感を、エゴの主張によればあなたがしくじってしまった“エゴの理想”の奇妙な寄せ集めと関連づけて考えます。
エゴの奇妙な行動の大部分は、エゴによる罪の定義に直接帰することができます。エゴにとっては、無罪の者は有罪です。攻撃しない人々はエゴの“敵”です。なぜなら、救いについてのエゴの解釈を尊重しないことによって、彼らは最もエゴを手放しやすい場所にいるからです。彼らはエゴの基盤となっている最も暗く最も深い礎石(そせき)に接近したのです。これ以外のことに関する異議申し立てに対しては耐えることができるエゴですが、この秘密は命がけで守ろうとします。というのは、エゴの存亡はこの秘密を守ることにかかっているからです。したがって、私たちが注視しなければならないのはこの秘密です。というのは、エゴはあなたを真実から守ることはできず、真実の前にあっては、エゴは追い払われてしまうからです。
#最後の一歩
夢の中で、夢を見る人は自分自身を作りました。しかし、彼が作ったものが彼に反旗をひるがえし、夢見る人が果たしていた創造者らも自分自身のものとして採用したからです。そして、肉体が彼らに差し出す復讐の故に、彼らは肉体を憎みます。
夢を見る人が夢を作る人ではあり得ないことを証明するように見えるのは、肉体に対する彼らの復讐です。結果と原因がまず分裂し、それから逆転され、その結果、結果が原因になり、原因が結果になります。
これが分離の最後の一歩であり、これと共に、分離とは逆の道を行く救いが開始されます。この最後の一歩は以前にあったことの一つの結果であり、それが原因のように見えているのです。奇跡は、因果関係の機能を結果にではなく原因に返す第一歩です。というのは、この混乱が夢を作り出したからであり、この夢が続く間は、目を覚ますことを人は恐れるからです。また、目を覚ますようにとの呼び声も聞こえないでしょう。なぜなら、それは怖れへの呼びかけであるかのように思われるからです。
奇跡は、怖れを作ったあなたに怖れの原因を返します。しかし、奇跡は怖れには結果がないが故にそれは原因ではないことも示します。なぜなら、因果関係の機能は結果をもつことだからです。そして、結果がなくなってしまった所には原因はありません。かくして、肉体は奇跡によって癒されます。
ある夢を見ながら、別な夢から目を覚ますということはできません。というのは、あなたは眠っているか目を覚ましているかのどちらかでしかないからです。そして、夢はそのうちの一つにしか伴わないからです。
あなたが好きだと考えている夢も、怖れが見える夢と同様にあなたをしりごみさせます。というのは、どのような形をとろうとも夢はすべて怖れの夢だからです。怖れは中にも見えれば、外にも見えます。あるいは、内外の両方にも見えます。あるいは、感じの良い形に見せかけることもできます。しかし、怖れが夢にないことは絶対にありません。というのは、怖れが夢の材料であり、夢はすべて怖れでできているからです。夢の形は変わることができますが、怖れ以外の何かで夢を作ることはできません。
怖れを認識しなかったが故に、あなたがまだ恐れていることを奇跡が許したとすれば、奇跡は確かに裏切り者ということになります。だとすれば、奇跡はあなたが目を覚ますようにと準備をしていても、あなたは目を覚ます気持にならないでしょう。
最も単純な言い方をすれば、攻撃とは、あなたが知覚するような形ではその機能が果たされていない機能に対する一つの反応であると言うことができます。その機能はあなたの中にあるかもしれないし、誰か他の人の中にあるかもしれません。しかし、それがあると知覚される場所においてそれは攻撃されます。すべての夢のテーマは必然的に憂鬱ないしは攻撃です。というのは、夢は怖れでできているからです。
夢を包んでいる快楽や喜びの薄っぺらな見せかけは、その核心である重い怖れの塊を僅かにヴェールで隠しているにすぎません。そして、奇跡が知覚するのはこれであって、それを包んでいる包装ではありません。
あなたが怒るとき、その理由は、あなたが与えた役割を誰かが果たさなかったからではないでしょうか。そして、これはあなたの攻撃が正当化される“理由”にならないでしょうか。あなたが好きだと考える夢は、あなたが与えた機能が果たされている夢であり、あなたが自分に帰している必要性が満たされている夢です。怖れが生じるのはそれらの機能が存在するという考えからです。
#暗い秘密
あなた自身はこの大変な仕事を遂行することをまめられてはいません。「聖霊」が提案するごく僅かなことをするように依頼されているだけです。「聖霊」が依頼するならば自分にはそれができると信じる程度まで、「聖霊」を信頼するということです。「聖霊」が依頼することはすべて簡単に達成できることがあなたにも分かるでしょう。
「聖霊」があなたに依頼するのは次のことだけです。あなたがこれまで「聖霊」に対して錠をかけてしまい込んできたすべての秘密を「聖霊」の所にもってきてください。
「聖霊」に対してすべてのドアを開いてください。そして、「聖霊」に暗闇の中に入り、暗闇を光で照らして消滅させてくれるように依頼してください。
あなたの暗い秘密の思いのすべてを「聖霊」の所にもっていってください。そして、それらの思いを「聖霊」と一緒に見てください。 「聖霊」は光を保持し、あなたは暗闇を保持しています。 「あなた方二人」が一緒にこの二つを見るとき、両者が共存することはできません。そして、あなたの知覚を「聖霊」の知覚と合流させるとき、「聖霊」はその価値判断をあなたに与えてくれるでしょう。