いつぞや、ナチュラルスピリットさんのイベントに呼んでいただいたとき、となりの参加者の方がいっていた奇妙な言葉が頭に残ったことがありました。

◯人間……。

僕は講演会などに参加するときは隅でちょこんと大人しくしているものの、話すきっかけがあった方には「なぜ、今日はいらしたのか?」「最近、読んだ本は何か?」「興味を持ったキッカケ?」「よくチェックしている情報は?」根掘り葉掘り教えていただきます。

その場での人との出会いはもちろん、そんな情報との出会いも楽しいもんです。

愛媛からいらしたという女性が「あら、知りませんか」常識ですよ、くらいの口ぶりで教えてくださったのは、ブログのタイトルだったようです。なんでも数多く翻訳をされている方のブログだそうで。

当時、『ソウル・オブ・マネー』の翻訳を終えたばかりで、翻訳者の山川ご夫妻や、あさりみちこさんたちとの対談を重ねていた頃。これまでは読み手だけであった、翻訳のパワーというものに僕は圧倒されていました。2つの言語を扱うという視点にとても興味があったのです。

その場で、本を何冊か注文しました。

よく聞くようになってきていた非二元(ノンデュアリティ)といわれるジャンルの、本の翻訳。難儀なことだろうなーと思いつつ。それを感じさせないほどにきれいな表現だな、という印象でした。ところどころ誠実な情報への関わり方も素敵だなと思って、ブログも数ヶ月に1度は覗いていました。

そして少し前、ブログでの発信をやめる、というような記事を更新していらっしゃいました。それまでの、個人的な内容の過去記事も消えていました。

何の準備もなくふらっとその更新を目にして、僕の心はざわざわしました。

どこかで「至極当然にそうだろうな」と思ったからです。

……。

ノンデュアリティ(非二元)というものは、それを口にした時点でデュアリティ(二元)です。なぜなら、言葉はデュアリティだからです。ワンネス、と口に出した時点で、それは分離を前提としてしまっていることだってあるんです。

つまり、伝えたいというメッセージそのものが意図に反して邪魔をしているような矛盾が起きることがあります。

自分の願望の実現を邪魔しているのが他でもない自分自身であるように。

形ある形而下を語るとき以上に、形而上の話には慎重さが要求されます。
それは、そのまま、誠実さと言い換えてもよいかもしれません。

それを、わかったふうに言葉にすることに、また、さもわかった状態があるというような理解の箱に入れてしまうことに対して……僕は、あやうさ、あざとさ、を感じていました。

そのため、会ったこともない他人に起きたことを推し量ることはできませんが、僕の中では「そうなんだろうな」とすんなり腑に落ちる部分があったのです。心の底から深い敬意を感じてiPadのディスプレイに向かって合掌しました。

言葉にするということは残酷ですね。

言葉にすればするほど、そこにはどこかズレがあり、つかみきれない。

本当に理解している人は、そんなこと語らないでしょうし、語っている人がいたとしたら、すべて口先だけのことです。口先だけでなら、なんとでも言えてしまいます。

背中で語る、という言葉もあります。でも、きっと本当に理解した人たちは背中ですら語らないんじゃないだろうか、と思ってます。大切なことは背中ですら語り尽くせません。

さて。そこで僕の足元を見てみれば。

いつからか、何冊かの本を書いていて。
言葉にならないことを言葉をつかって発信しようとしている自分がいるわけです。

心のざわざわは、その部分からやってきていました。

深呼吸をしてちょっと立ち止まって「そもそも、なぜ僕は発信をはじめたのだろう?」と自分に問いかけてみました。あること、を扱うためには、そのあることを決めたときの記憶を思い出すところから始めます。

すると、図書館の風景が浮かんできました。僕がある時期、毎日のように通っていた図書館で出会った、言葉。その言葉がふっと浮かんできたのです。

<つづく>

★ノンデュアリティというデュアリティ(2)

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★ノンデュアリティというデュアリティ(1)2016年4月22日
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